(1)障害児教育の草分け 私の昔の師匠
(2)やあコーヒー
(3)障害児(者)の真の幸せを
(4)実践障害児教育
(5)煎茶道マナーの学習
(6)障害児教育センターだより
(7)山陽放送 NHK岡山放送局
(8)教材の記録
(1)私の昔の師匠です
昭和57年(1982)12月5日新聞記事
障害児教育の草分け
自宅を「堤塾」と称し、昭和十八年から知恵遅れの子供たちと寝食をともにし、その教育と福祉に力を尽くしてきた生駒郡斑鳩町法隆寺一〇六三の堤勝彦さんが、さる十月二十六日に亡くなった。七十八歳だった。豪快で明けっ広げな人柄を、滋賀県・近江学園の創立者の一人であり、最近では障害者と健常者がともに生活する共同体「茗荷村」の運動で知られる田村一二氏は「無格の聖者」と評されたが、地元斑鳩町に住み、堤さんとも親交があった生駒郡斑鳩町立平群東小教諭の中村佐喜雄さん(五五)に、堤さんの人となりやそのめざした福祉について書いていただいた。
親しみ深い「無格の聖者」堤勝彦先生の逝去を悼む
中村佐喜雄
堤勝彦先生の訃報の知らせを聞いた時、私は一瞬がく然となり、「しまった!」とうい失望感にかりたてられた。無理もない。私は先生のお元気なお姿に接して、まだ一年にもならないからである。今年の二月ごろ、お会いした時は足腰こそ弱っておられましたが、話される様子も病床にしてはお元気で、「子どもたちは元気に勉強していますか」とか「先生も頑張っているだろうね」と尋ねていただき、私も自分の担任している重い障害の子の様子を説明したり、将来私が開きたいと思っている成人障害者の小さな施設の構想を、聞いていただいたりした。そして、この年の暮れには一度お伺いしようと思っていた矢先であったからである。障害児の教育をわが命と考えている私にとって、実に大切な人を失ったと悔やまれてならないが、もはや今となっては、堤先生のごめい福を心からお祈りするしかない。そして「先生どうか幸せ薄いこの子らのために、英知をお授けください」と・・・
さて障害児教育のわが師、堤先生とはどんなお方か、それには私にとって先生との出会いに戻ってふれてみる必要がある。思えば話は二昔前の昭和37年にさかのぼる。このころはまだわが国では、こうした教育や福祉がやっと盛んになりかけたころで、シ障害児の学級が郡市に一つあるかなしかであった。ちょうどそのころ私は斑鳩町の小学校で普通学級を担当していたが、そこでも障害児学級を設けられることになり、私が身内(甥)に軽い精薄児を持つ関係もあってその担任を買って出た。しかし若輩のため不安であったのだろう。最初はなかなか許されなかったが、どうしても、と言う私を学校長の久保英夫先生は呼んで「君はそれほど強く望むが、もし失敗したらどうしてくれる」の問いに、とっさに私は、「この上の屋上に上る出口の蓋についている、鉄の鎖で首をつって死にます」のやり取りで決まってしまった。さあ大変だ。教育に命をかけてしまったのだ。しかし私の脳裏にはちゃんと算段があった。それが堤先生なのだ。堤先生は大阪から帰郷されて、精薄者の幸せのための塾を開いておられること。そしてそこには、世に特異天才と言われる昆虫の昭ちゃん(東に山下清、西に昭ちゃんと言われていた)がおって、先生が指導しておられ、すばらしいチョウや、カマキリ、バッタのどの昆虫の切り紙をつくっていることなど知っていたので、早速私はだれの紹介もなしに堤塾の門をたたいたのである。それほど堤先生は地域の人に親しまれており近づきやすい存在であったのであろう。先生は私の話を一通り聞かれ、校長とのやりとりの話に苦笑されながら、私をテストされたことを覚えている。その内容は古いことで定かでないが、精薄児教育への姿勢を問われてように思っている。そしてその場で合格したらしく、「やりなさい、君ならやれる」とにっこり笑われた。そのお顔はやさしい童顔のごとく今も覚えている。後で聞くところによると、先生はこのような場合大抵不合格にされるらしい。そしてその日のうちに、精薄児とは、その特徴、生まれるわけ、その種類、出現率、知能測定法、教育の仕方等に、その道の秘伝?に値するものを一気に教えてくださった。「思いつきでは、障害者の教育はできへん。先生は、自立につながる愛される人間をつくりなさい」「アヤメはアヤメ、チューリップはチューリップやで。人の個性はさまざま。その子の長所や能力を伸ばしてあげなさい」「私がしているのは剪(せん)定教育。この子たちの悪い芽を摘み、良い芽を伸ばすのだ。しかし、盆栽は作るな。人間、観賞用では役に立たない。剪定しながら、大木を作るのだ」目を閉じると、相好をくずした、ほのぼのとした先生のお顔から発せられる言葉が思い浮かんでくる。先生との出会いを二つの節目に、私は障害児学級の開設に校長ととりかかり、以来障害児教育に携わっているが、それからまもなくのことである。先生は私の学級にこられ、塾生の手仕事の賃金から当時のお金で五千円くださった。私は塾生さんのご意思にこたえるために、九官鳥を買って、子どもたちと毎日世話をしながら、「おはよう」「こんにちは」「いらっしゃいませ」などの言葉を仕込みながら、楽しんで言葉の指導を行った。子どもたちは生き生きと自らの能力を伸ばしていった。二年ほどたったある日、九官鳥は病気にかかり死んだ。堤先生は塾生を数人連れてこられ、子どもたちに葬り方を教えてくださった。お経の唱え方も。このようにして堤先生は地域の精薄児の心に潤いを、教師には能力を授けていかれた。堤先生は塾の経営に際して、日本のこの道の大家といわれる人々(糸賀一雄、田村一二、保木賢雄各氏)とも親交を持たれたことは広く知られているが、今追想すると、先生は常に障害児の体と心の健康の保持を考えながら、しかも地域に合った仕事を塾生に与えておられた。塾生たちも喜々として町へ出て買い物や走り使い等していたし、今もそうである。このことは、とりもなおさず現在叫ばれている国際障害者年のテーマ「完全参加と平等」を、はるか昔から先取りしておられたといえよう。
(なかむらさきお)1927年(昭和二)奈良市生まれ。奈良学芸大教員養成科卒。二十三年四月から生駒郡三郷小教諭を振り出しに同郡斑鳩小、平群東小教諭を歴任。三十七年から障害児教育に携わり、昭和四十八年には音楽指導を取り入れた独自の障害児教育の実践から、教育選奨を受賞した。現住所は斑鳩町阿波三の一一の二七。
(2)障害を持つ子と共に
「やあ、コーヒー牛乳!」
中村佐喜雄
(岡山市下足守386モンテ微塾足守仲良しホーム塾長)
以前に私が公立小学校で、障害児教育を担当していました頃のことです。
かなり重い自閉的障害児の小学校へ入学したばかりのM君が、雨天の後の水溜まりの泥水を飲んでいると言う噂を耳にしました。
しかもそれが間もなく地教委にも知れわたり、校長さんからも「中村先生、こんなことではM君に赤痢にでもかかられては大変ですから、”就学猶予にでもしないといけませんな”と言っていますがどんなものでしょうか」と言われましたので、私はびっくりしました。「ちょっと待って下さい、私はM君を何とか教育してみたいので、そんなことをされますと困ります。そのM君の癖は私が止めてみせます。」と答えてみましたものの、今すぐにはどのように対処していいか分かりません。
M君を呼んで言い聞かせましたが、さっぱり反応がありません。とにかく降雨を待って考えてみることにしました。
或る日の雨上がりの校庭で、私は一人遊びをしているM君の近くからそれとなく見ていますと、M君はにこにこして側の水溜まりに近づいていき、「やあ、コーヒー牛乳!」と言うなり、ポケットからハンカチを取り出すと、座って水溜まりに浸し、雨水をタップリと含ませて、もう片方の手で包みこむようにして口に持っていこうとしましたので、私はとんでいって「だめ」と言うなりM君からハンカチを取り上げ、強く抱きしめて、「コーヒー牛乳ちがう」と言いますと、M君はかなり驚いた表情で私にしがみつきました。その様子があまりにも可哀そうに思えたのと、今一歩M君に理解を得るためにもと、私はM君の見ている前で、M君の今行ったしぐさをそっくり真似てみました。そして、ついでに私の舌でペロリと雨水をなめてみて驚きました。何とおいしいこと、プーンと泥くささと言うよりも一種の香ばしい匂いに。ああそうだったのか、水道水のカルキの匂いよりははるかに美味なのです。丸でコーヒー牛乳そっくりの色もしているし・・・これで分かったぞ、そして私はすかさず「M君、コーヒー牛乳ちがう、だめ」と再度強く言って、ハンカチを地面に強く叩きつけました。
M君は大きな目を見開いて私のすることをじっと見ていましたが、ピシャっと地面に叩きつけられるハンカチの音を聞いて何事かを感じ取ってくれた様でした。
その後はプッツリとこのたぐいの噂は聞かなくなりました。
おかげで私は地教委からM君を取り上げられることもなく、指導法の大切なことがらをたくさんM君から教わることができたのです。
この手記は、1998.2.1の故中村先生の五十日祭(四十九日にあたる)に参拝した際に、いただいてきた原稿用紙3枚の先生自筆の文章から。ある新聞に載った文章とのことです。子どもを理解するとはこういうことなのか。障害児教育の原点を語られている中村先生の思いが伝わってきます。ぜひ一読を。コーヒー牛乳とは雨の後の運動場の水溜まりの泥水のことです。
(3) 障害児(者)に真の幸せを
中 村 佐喜堆 (生駒郡平群東小学絞 教諭)
「愛することができないのは知らないからである。愛は知ることから出発する。愛の別名は理解である」という言葉を昔聞いたことがある。
特秩教育に携わって長らくなるが、私にとってこれ程味わいの深い言葉はない。担任当初より今日迄障害児の幸せを考えることを生甲斐として来た私は、世の全ての方々に今強く訴えたい。即ち「障害児に深い愛を」と願うのではなく、「どうぞ障害児に正しい御理解を」と。それには教育者、保護者、一般社会人、為政者など全ての人々のバランスのとれた理解がほしい。が現実はそうでないのが悲しい。と言っても他を責めるのではなく、いつ迄たっても満足に行なえない自分を嘆かわしく思うと共に、中でも障害児を持たれる保護者の皆さんの心に深い理解がほしい。障害児にとってあなた方の力は強い。あなた方親達の前向きな熱意によって私達が励まされ、地域の理解が生まれ、それが障害児の幸せにつながる。今や昔と違い一般社会のこの教育に対する認識はまだまだ不完全乍らもかなり進んで来ている。若し「私の所はそうでない」と否定される向きは、必ずや保護者の姿勢、意欲等にも問題がありそうだ。さて私が日頃障害児教育と取り組み乍ら痛切に感じることをニ、三述べることにより各位の御批判を仰ぎたい。そこで一概に障害児と申してもハンデの差はかなり大きいが、我々健常者にとっても決して無縁のものではなく、人みな神ならぬ身誰でも何らかの見えない障害を持つ。障害があって普通。ただそれが軽いので日常生活に支障がないというだけ。障害者と呼ばれる人達は、障害が重い為に日常のあらゆる生活場面で計り知れない苦労がある。このことから考えて障害児(者)とは 「顕著な障害を持つ普通の子(人)」と言える。そして誰でもその様な境遇に置かれる可能性をもつ。
という点に着目したい。このことをはっきり認識することにより、一般の障害者に対する偏見や、障害児の親たちのもつ罪悪感も払拭され、前述のバランスのとれた理解に達し障害者の永久の幸せを保障した施策が講ぜられよう。障害者を大切にできない様な社会や国家は今や恥である。そしてこの教育には金さえかけたらいいだろうと考える風潮もあるが、それ以上にもっと心が欲しい。心のない金だけでは決して幸せに至らない。今年は養護学校義務化の実施で各地にいろいろな問題が起きているらしいがとてもいいことだ。このチャンスを逃がさず国民みんな自分の置かれた立場で心のこもった論争を闘わし、最後は何とか立派に妥協してこの教育や福祉を前進させたいものだ。そして私は考える。次のメリットとして「障害者の社会復帰の義務化」を。どんなに重い者も真の幸せは地域社会と家庭にあることを再認識したい。(施設不要論と誤解のなきよう)そして、我々教育担当者は、そうした温かい社会にうまく適応できる好ましい人間像をつくって行く努力を重ねることになる。
(昭和54年3月10日発行 障害児教育百年奈良県記念誌 P144)
(4)実践障害児教育 1983.12月号
たくましい子を育てる体力づくり
しっかりした 「からだをつくる」ことから、この教育はスタートする。運動が単なる筋力増強にとどまらず、心身全体に及ぼす影響が大きいことは、だれもが認める事実である。しかし集団の中で、能力差の大きい個々の子ともに適した運動教材を、計画的・継続的にどう準備したらよいか・・・。本号は、その悩みに答える「からだづくり」のエスプリである。
自閉的な子の心を開かせた「ローラースケート学習」
中村佐喜雄(奈良県生駒郡平群町立平群東小学校)
本校では、重い自閉的な知的障害児A君に、あらゆる教材を用いて指導を試みた。しかし、数例を除く大部分は失敗に終わり、途方にくれていたとき、ふとしたはずみから思いついたこの教材のローラースケートが、思いもよらなかった好結果を生むことになり、子どもも教師も共に救われたわけである.
ローラースケート指導の計画
1、内容と方法
ローラースケートの指導を通して、健康の維持・増進体力の向上を図り、あわせて日常生活指導対人関係、問題行動の改善を目ざした.
(イ) 目標
●全身運動によって、健康の増進、体力の向上を目ざす。
●すべる楽しさを通して、気分を開放させる。
●各種の応用課題をこなすことにより、持久力、忍耐力を養わせ、自信をつけさせる。
●日常生活での身辺処理、危険防止等の能力面の育成を図る。
(ロ)指導内容
●徒手体操、模倣遊び等の準備運動
●ローラースケートおよび、ヘルメット、サポーター、手袋等の装具の着脱
●安全なころぴ方の技術
●滑走、旋回、停止等の技術
●音楽を利用した表現の技術
●スケートを用いたボールけり、車押し、自転車乗り、サーキット訓練等の応用技術
(ハ)指導上の留意点
●最初に、手首を振ったり、肩の上げ下け、首回し、膝の屈伸、足首回し、腰、腹筋等の準備運動をして、筋肉や関節をよくほぐしておくことが大切。
●スケートを着けたら、体重が前後のウィール(車)の中心にかかるように、児童の手を取って整えてやるとよい。
●慣れるまでは、すべるよりも、その場で足踏みや、ゆっくり歩く練習をするのがよい。
●少しすべれるようになったら、静かな音楽を流してやると、喜んでリズムにのってすべる。
2、指導計画
●第一次〔導入期〕……五時間
ローラースケートの機能を、からだで覚えよう。
いろいろな遊び方を工夫しょう。
3、指導場所
学校は、幸いにして指導の場所が多い。わたしは、広い場所よりも、むしろ狭い通路や教室内を、訓練の場としてよく利用した。
4、対象児A君のプロフィール
昭和五十五年の春、K市から本校に二年生として転入。身体は正常で発育も良好であるが、知能がきわめで低い。
「精神薄弱児の発達珍断表」によると、身辺自立では三歳程度、全身運動面では五歳以上あるのに、手の運動では二歳、言語の理解が一歳半・表現に至ってはそれ以下、対人関係や集団持参加面では一歳半程度といった不均衡ぶりである。
転入当初は、常に抱っこ、おんぶを要求し、言語は皆無。奇声を発するのみで、多動で常同行動が多く、ほとんどの事物には興味を示さず、集団の中へはいれず、一人遊びがほとんどであった。また、唾液を所かま字に出し、何を指示しても知らぬ顔、ちょつとのすきにいな〈なり、絶対に目を離すことができなかった。
指導の経過と効果
このような興味関心の少ない子に、何かの能力をつける際、つい教師も押しつけ的になり、それが子どもに苦痛を与え、ますます子どもの心を閉ざすことになるようだ。
A君にとつて一番必要なことは、「楽しくやれて、遊びと訓練が同時にできる教材」を見つけることであった。
それがやっと、転入後一年入か月を経た昭和五十六年十二月に、ふとこのローラースケートがひらめき、年明けの昭和五十七年一月中旬にテストを行ない、すぐに指導にはいった。
1、導入期の様子
最初のテストで、A君にスケートや装具を着けるとき、初めてのことで不安におぴえていたが、努めて安心感を持たせるために、スケートを着けたまま、背負って練習場へ連れて行く。
最初は、教師が手を取って静かに歩く。十分間ほどで慣れる。続いて、手を持ってゆっくりすべる。よろよろして数回ころぶが、間もなくスケートの機能を理解したようで、ころんで痛くても、サッと立ち上がって進んですべろうとする態度には感動する。
A君の目がぎらぎら光る。「大成功!」思わずA君を抱きしめる。転入以来今日まで、このような積極性を見たことは一度もなかったのである。
こうして、初日は三十分はどで終わる。ごほうびのおんぶをたっぷりする。表情が実に明るい。導入期の指導で、A君には、次のような変化が見られた。
●指導開始前になると、自分からそれを察知し、装具を取って来て、一人で着けられないのに無理に着けようとする(自発性の出現)。
●多動性が、今までより少なくなる安定感の獲得)。
●容貌が明るくなって、行動に活気が出てくる自信感の芽ばえ)。
●スケートを着けて、よく相手をしてくれるA君の友人らと、時たま遊ぶことができる(対人関係の芽ばえ)。
2、基礎訓練期の様子
こうして導入期を終えたA君は、自信を持って本段階にはいる。ここでは、自由すべり、安全指導、表現活動の各指導によって、スケートによく慣れさせることにある。
自由すべりは、全く子どもの思うままに、伸び伸びと初めの十分間ほどをあて、中の十五分間を、滑走、旋回、転倒、停止等での安全面の指導に使った。
特に停止の訓練は、トライアングルの美しい金属音を利用した条件反射法で反復指導したことが、特長的と言えよう。最後の表現活動は、本時の仕上げの段階になり、レコードをかけて、教師の誘導で楽しくすべった。
この期間での効果としては、次のようである。
●何よりも楽しい自由すべりによって、A君は、ほどよい緊張感を保たせながら、得意げにすべり回り、終わってからも表情がよい。
●A君の気分にゆとりができてきたのか、今までは輿味がなかったポールけりが、できるようになる(集中心の芽ばえ)。
●音楽を使った表現活動で、A君は、タンバリンをリズムに合わせてじょうずに打ち鳴らしながらすべるようになる(感覚・認知力の芽ばえ)。
●自由すべりのとき、奇声とは異なる、また別の明るい感じの声をよく発するようになる(開放感の獲得)。
●ころぴそうになったとき、たまに「ヒヤトッ!」という叫び声を上げて、じょうずに転倒からまぬがれる(反射神経、バランス感覚の向上)。
●ターン(旋回)の練習では、輪やロープを持たせて教師の誘導で行なうが、ここでは、A君の握力が目に見えて向上する。
●指導中は、教師の指示語によく反応し、自分勝手な行動は今までより少な〈なる。
3、応用訓練期の様子
A君の、予想外の進歩をまのあたりにして、応用的な題材を大きくふやすことにした。なおそれは、次の二種類に分けて指導した。
(イ) 一般的な題材
●スケートを着けて、タンバリンを打ちながらすべる「おにさんおいで」
●バレエ風の音楽に合わせてすべる「ワルツで滑ろーう」
●運搬用一輪車に荷物を積んで運ぶ「一輪車押し」
●旗やボール、いすなどの障害物を回ってすべる「スケーティング・サーキット」等。
(ロ)強化的な題材
これらは、文字どおり全身の能力をより高める題材であり、中でも身体的防衛力を増進させ、自信をつけ、最大目標とする社会自立へ、一歩でも近づけようと意図するものである。
そこで、題材としては、
●みぞをまたいですべる「みぞまたぎ」
●階段を教師の介助で「レーンジャーごっこ」
●坂を上がり下がりで「スローププレイ」等、危険なものが多いが、教師のスキンシップのもとで、A君は大胆に挑戦した。
これら、(イ)(ロ)を組み合わせた指導により得られた効果としては、次のようである。
●反射神経の刺激強化により、日常の身辺処理がスムーズになる(生活習慣の向上)。
●登下校の道路の歩行、横断等において、注意力が増し、今までよりじょうずに行なうことができる(生活能力の改善)。
●体育のマラソンで、今までは強制されて走っていたが、少し自主的に走れるようになる。
●同じくボールけりで、軌道をそれてころぴ行くボールには見向きもしなかったが、今では、自分から拾いに行く(責任感の芽ばえ)。
●遠足のときなど、いつも仲よ〈してくれる友人の持ち物を大事に持ってやり、友人たちから喜ばれる〔社会性の出現)。
●別に、生理的な変化として常時出ていた唾液がほとんど出なくなり、多くの健常児が、進んでA君に近づいて遊んでくれる。
●補助輪をつけて乗っていた自転車に、それをはずしても乗れるようになり、ブレーキの操作も覚える(身体調整力の向上)。
●(驚き)@スキーですべる。
父親からの報告であるが、会社の慰安会でマキノスキー場へ連れて行ったとき、A君は生まれて初めてのスキーに、ストックなしでじょうずにすべって父親を驚かせたという応用力の獲得)。
●(驚き)Aスケート着用で自転車乗り。
スケートの前後のウィール(車)の間に、自転車のペダルがうまくはいることから、スケートを着けて自転車乗りに挑戦。最初は、その乗り降りが大変であったが、間もなく慣れてじょうずに乗り回して、周囲の人たちを「アッ」と言わせる。
まとめ
このようにして、重い障害児A君は、指導時間四十時間余りで、ローラースケートという健常児用の、しかも危険な遊具によって、自身の持つ隠された能力が引き出されて、平衡感覚や全身運動機能の向上に有効であったことと、別にまた、対人関係や、日常生活面の成長や発達にも役立っていると思われる。
さらに将来の自立のために必要な耐性、意欲など、精神面での向上をももたらしていると言えよう。
特に最近では、これまで困難をきわめた造形や言語の領域にまでも、学習意欲のきざしが見えてきている。なおまた、子どもの成長や発達には著しい個人差が見られるので、本例が障害児だれにでもあてはまるとは思わないが、これを採り入れて指導されている本校近辺の例から見て、本教材の適応児は、かなり数多くいるのではないかと思う。
なおまた、本数材は健常児とも一緒にできるすぐれた教材の一つでもあるので、広くこれを障害児と健常児間の交流活動にまで高めていきたいものである。現に、ローラースケートの技を身につけたA君は、周囲の健常児や地域の人たちからも、その人柄を見直されているという昨今である。
最後に、本教材の有効な継続使用の仕方についてであるが、日常生活での遊戯的使用のほか、体育科の準備運動の中に採り入れて行なっている。
以上、本事例を通して、ローラースケートの指導が障害児の成長・発達にとつて有効な治療教育法の一つであることを経験したので、報告する。
(5)定年退職記念教材
この実践記録は、故中村佐喜雄先生の遺品の中にあった
定年退職記念教材と記されている手書き原稿をもとに活字化したものである。
(1987年)
友人がどんどんでき生活能力が目に見えて高まった
『煎茶道マナーの学習』
(元)奈良県生駒郡平群東小学校教諭
障害児学級担任 中村佐喜雄
中度の知的発達遅滞児・Y児(小学校五年生 女児)に、三年前から始めた「文字と生活体験を結びつける学習」が効を奏し、本児に言語、数量の基礎学力がついてきたので、この学力を何とか積極的な生活体験に応用できないものかと考えたあげく、発見したのが本教材「煎茶道マナー学習」であった。そしてこの教材発見の直接的引き金となった学習は、数量の「温度理解」からであった。これは毎日指導している言語学習として使っている日記指導の「気温の測定とその理解」から、本児の感覚的に習得したものであることをぜひ触れておきたい。そしてY児が本教材の学習に取り組んだ当初から、以下述べるような、思いもよらなかった好結果を生むことになり、子供も教師も共に救われたわけである。
煎茶道マナー指導計画
1.内容と方法
児童の知能、身体、情緒等の特性をとらえ、既習の国語、算数、理科等の基礎的な知識、技能を、日常生活面に応用した煎茶道マナーの学習活動を通して、日常生活に必要な礼儀作法、集中力、コミニュケーション、その他各種の能力を身につけさせ、将来の社会的自立の一助に資する。
(イ)目標
本教材の学習によって、特に次のような障害児の一般目標が達成されたことに気づく。
●(基本的生活習慣)食事の時のあいさつ、行儀、食器の扱いや片付け、調味料の扱い等についての理解や能力
●(遊び)一人で、または友達と、特に仲間に入れない友達と、一緒に遊んだり、指示されて遊具をゆずるとか、共同の遊具などを大切にしたり、後始末をする等の態度
●(交際)自分の住所、氏名、家族の名前を言ったり、身近な人に自分からあいさつをしたり、忘れ物をした友達に自分の物を貸す。友達との約束を守る等の能力。
●(手伝い、仕事)簡単な伝言に行く、用事がすんだ時の報告、使った物の整理、整とん、決められた場所の掃除をする等の能力
●(決まり)時刻を守る、学校の決まりを守る。落とし物を届ける等の態度。
●(金銭)お金の大切さ、むだづかいのいけないこと、お金の種類等の理解、お金を使って小額で決まった額の買い物をする能力。
(ロ)指導内容
◯(準備)
・席は畳の間でない所では、カーペットを三畳分ぐらい敷いて、その上に図?のように茶具を飾る。敷物は別に厚めの布を寸法のように切って、あらかじめ茶具を置く場所に印をつけておくとよい。図
・お盆の中の茶具は類は、図 のとおりで、始めるまで盆覆(布巾でよい)をかけておく。・炉(マナーでは涼炉と呼ぶ)の火(電熱)と湯加減(C°80)を調べておく。
・水入れ(水注と呼ぶ)の水、茶壷のお茶の葉は、八分目まで入れておく。茶の葉は「煎茶」でよく、教材には安価なものでよい)・お菓子は、強い匂いや刺激のないものなら何でもよく、教材には飴がよい。
◯お手前(もと点前)ごあいさつ・・・「一煎さしあげます」(学習に入る前に客にあいさつをさせる、客は軽く頭をさげる)
◯お手前を進める。(マナーの個々の動作は教本の指示によって進めていくが、あらあじめ、子供に見えるようにしておくことが大切である。これを「手前簡略表」と呼ぶ。(これは教本を見ながら、教師は子供の姿を目に浮かべて、その能力と対称させながら必ず一人で作る。理由は後記)
『手前簡略表』により指導を進める。
1. 茶具を飾る(盆おおいがかけられてあるか)
2. ごあいさつ「一せんさしあげます」としとやかに言う
3. 盆おおいを取って四つに折り盆の左におく
4. 茶つぼを左手で取り、左手に持ちかえて盆おおいの上方に置く
5. 茶りょうを茶つぼに立てる
6. 茶たくを両手で取り、左手で盆おおいの前方に置く
7. 茶わんを (正客)から まであお向ける
8. から の茶わんに水を入れる
9. から の茶わんの水を捨てる
10. から の茶わんを茶巾でふく。
11. ボーブラ(湯沸かし)の湯を、茶わんと、きゅうすに入れる
12. 茶りょうを右手で取り、左手に持ちかえて
13. そのままで、茶つぼを盆の中に入れ、ふたを取って右に置く
14. 茶りょうに茶の葉を七グラム入れる
略
26. あいさつ『どうぞお上がりください』と言ってお茶を飲む(主人は の茶わんを飲む)
27. 飲み終ったら、元にもどし『お菓子をどうぞ』とすすめる
28. お菓子を食べ終わったら、茶わんを盆の中に入れて並べる
29. 茶たくは盆おおいの下方へ置く
30. 茶わん 〜 へ水を入れ、 〜 の順に捨てる。茶わんをふく
略
38. 盆おおいを広げて盆にかぶせる
39. ごあいさつ『不調法でした』としとやかに言う(各は『ごちそうさまでした』とおじぎをする)
2. 指導上の留意点
◯茶道は、家元を発祥とする厳しい流儀の正統を伝えるがゆえに、障害児といえども、その客観性をおろそかにすることは許されない。(健常児と共に生きるがゆえに)と考えるが、そこはハンデを持たされた障害児のこと、指導に入るまでに、子供の能力、特性等をよく吟味して、本教材のもつ正統性を曲げることなく、教本よりくずした、前記簡略表を作り展開することにした。もちろん指導者は、未経験であったので、前もって地元に在住する師匠に数回手ほどきを受けた。このことは、子供が将来成人して茶席にでるような事態になっても、うろたえることはないと思うし、また障害児だからと軽く考えて『ただ、ついで、飲み、お菓子を食べる』だけの指導では、単なるままごと遊び同然となり、それでは数多くの指導内容を持つマナー学習の目標が達成されず、長期にわったての指導も不可能であり、本教材の持つ価値が著しく低下することを特に強調しておきたい。
◯本教材の指導にあたっては、家元『水口豊園』師の『円方流煎茶道』の教本を使用し、筆者居住地在住の師匠『吉田妙園』女史に手ほどきを受け、前記の簡略表を作った。
3.対象児Yちゃんのプロフィール
◯小学校五年生女児(IQ)、中程度の知的発達遅滞で『精神薄弱児の発達診断表』によると、身辺自立では、歳以上あるが、運動機能の全身運動では歳、手の運動では歳級、社会生活面では言語理解が〜歳級、言語の表現が歳、対人関係、集団参加が歳、各程度であるが、性格は極めて繊細であるのに、明るく素直、発育も良好である。ただ股関節脱臼の既往症があり、行動が緩慢で、せかされることを極度に嫌うが、自力では健常児に劣らない持久力を持つ。
◯学習面では、平素から将来への自立に備えて、言語活動を盛んにするために、音楽療法を取り入れた指導を行ない、子供の喜ぶ歌をふんだんに教材として用いたので、かな文字、漢字、日常生活によく使われる数字(年、月、日、気温)などを興味をもって使えるようになる。
指導の経過と効果
このような言語に特に障害を持つ、コミニュケーション不得手な中度の知的発達遅滞児に対して、将来の自立のためにとは言え、教師が無理に何かの手だてを考えておしつけても、子供ににとってはその時勝負のみに終り、長続きもしなければ、その定着もむずかしい。今子供にとって一番必要なことは『楽しくやれて、同時に学習と養・訓が可能で、しかも広範囲に応用が効く教材』を見つけることであった。それがやっと本児が四年生になったころ、前述の『文字と生活体験の学習』から基礎学力がついてきたことによりひらめき、年明けの昭和六十一年一月上旬に器具を購入し、前記師匠の助言により教材研究の後、一気に指導を行った。
1.導入期の様子(約二時間)
最初は、図 のように茶具をきれいに並べる(「飾る」と言う)のであるが、これがまた、置き方や寸法などが決まっていて、それがやかましい。指導する側も、教本の指示だけでは余りにも不安が多いので、前記師匠を教室に来てもらい、子供の前で、ゆっくりていねいに『お手前』のマナーを、ひと通り指導していただく。これが本児にとって大へんな興味をそそることになった、やる気を起こしたようである。そのとき以来、『先生、お茶、お茶!』と次回の指導を自分から催促することになったからである。
2.『手前簡略表』作り(約3時間)
なんと言っても、この作業が一番大へんであったと思う。こちらが無知なるがゆえに、教本と首っ引きで、それも子供の顔や姿を常に目に浮かべながら、消しては書きして、教師が子供が使い易いようにと工夫をこらして作り上げたからである。ここで特に注意しなければならないことが一つ。それはこれを作るとき、教師ひとりだけでなくやることが大切で、障害児の場合、子供を同席させて、意見を求めようと話かけたりしても所詮弧度もの思考を混乱させるだけで益することは少ない。むしろ指導に際しては、常に子供に対して『新奇な注意力、くいつき方』に期待する方が、はるかに効率がよいと、指導をしてみて気が付いたからである。マナーの手順が余りにも多いためであろう。(正式には百もあろうか、本児には能力に合わせたので三十九項にしぼってある。)
3.実際指導の様子
導入も終わり、簡略表も完成して、いよいよ子供を待たせておいた指導によることになる。簡略表を見て子供の目が美しくきらきら輝く、こうなるとこちらもやる気が起きる。「Yちゃん、しっかり覚えようね」と つい言ってしまう。
(イ)茶具の飾り付けと準備
・これが最初の大切なところ(図 の敷物に、図 のように、マジックで印をつけておく)お菓子は子供の喜ぶものがよい。本児にはあめ玉、ゼリー、小粒のチョコレート等を使用(正式でも抹茶道とちがい特に制限はない)
(ロ)手前の指導に入る。
・茶具も飾り湯もわいてくると、簡略表により、おちついてゆっくりと指導に入る。ここで大切なことは、早く覚えさせようとせず、簡略表と、教本の写真や図を頼りに、教師と子供が一つ心になって、自然な形で『体で覚えさせる』とする方が確実に定着するようである。本児の場合、五〜六回の指導で大体理解できたと思う。
・こうして、やり方が分かりかけて、子供の心に自信がついてくると、このむずかしい『手前』の指導が実に楽しくできるようになってくる。そうだ、本教材は子供と教師の共有物であったのである。そして『あいさつ』と『礼儀作法』は、学習の深まりと共に、どんどん日常生活面と広がりを見せていくことになる。
(ハ)お客さまを招待する。
・なんと言っても、この段階が本学習の『クライマックス場面』と言えよう。日頃何一つ本児が健常児に対して、サービスなどできず、非常に他人に『してもらう』と言う、言わば受け身の人生の障害児であればこそ、指導する側にもその心情が痛いほど分かる。学習段階がこの辺までくるともうしめたもの、今までのむずかしかった学習のしんどさがふっとんでしまうらしい。本児が精神を一点に集中して、簡略表を横目でちらちらにらみながらやっている姿からも、よく分かる。教師も『ああよかった、これでこの子にも大きな楽しみができたのだ』と。まだ不慣れな段階のままで客を招待するのであるから、時おりまちがうが、そんなときは、やさしく『ああこうだったね』と一緒になって手伝ってやるとすんなりと覚えこみ、二度とまちがいを繰り返さないから不思議である。
・お茶を差し出す順序は最初からまちがわずにできるが、お菓子をすすめるときは、自分が客よりも先に口にほうりこんだり『もっとほしい』と要求したりするので、それらのマナーを正すのにも、大へんなごやかなふんいきが生まれ、こんなに楽しい障害児の指導は、長い今までの間には一度もなかっただけに、改めて障害児教育の教材選びの大切さを身にしみて感じている。
4.指導の広がり
・煎茶道マナーは五人が一組になっており、あいさつから順序、茶菓の差し出し、茶器の水洗い、後しまつ等一貫した『指先、体、心の集中作業』の繰り返しであり、しかもそれらが、強制されるのではなく、自分の意志の力で自発的に行われ、その活動は人を選ばず(大、小人、老、若、男、女一切関係なく)コミニュケーションを大切にしながら、極めて人間的に行われるという『交流教材』でもある。
・なおまた、本教材は『ゴッコあそび』ではないから、高まりと共に系統だった指導が可能であり(簡略表を改変していくことで)長期にわったって、飽きることなく指導が続けられる。
・これらのことから、多種多難な、知識、技能、態度、習慣(前記の(イ)目標)が自然に身につき、しかも将来の生きがいにつながる。(障害者が健常者と同一レベルで楽しめる)という利点をもっている。本児もこの時間だけは他人にサービスできる(自己実現していることの優越感から)唯一の時だけ、その活動ぶりには、すさまじいものを感じる。
・客の招待は、習い初めは専科、交流学習(五年一組)の担任、校長教頭先生、同学年の先生、事務、用務員の方々、そして交流学級の児童となり、そのうちにだんだん広がって、全校の先生方、全校児童と半年余りの間に八百余名の接待を果たしたから、正に賞賛に値する。このような接待は主として業間休みの時間に行うが、担任によっては特に時間をとってくれることもある。ただ休み時間のときは、マナーの全部は行わない。
・このようにして校内の人たちを一人でも多く障害児学級へ呼ぶことによって、健常児(者)に障害児が生き生きと活動している姿を見せることにより、それらの人たちの障害児への意識改革のためにも、大いに役立つことができて大へん嬉しい。そしてこのことは、正に、障害児が将来地域でより幸せに生きて行く上での育種的な配慮とも言えよう。(付(2)児童の反応より、参照)
まとめ
本教材は『知的なハンデを持たされている障害児が、厳しい社会現状のもとで耐えて生きて行くと言うだけでなく、真に人間として、うるおいのある人生を送らせたい』と言う強い願いのもとに考えついた教材であり、実施してみてそのことが実感としてよく分かる。中でも自立のもとになる『友だちづくり』が、ごく自然のうちにできると言う特性を持ち、『障害児自立の生活能力の高まりと、『回りの人たちへの啓発』の両者のねらいを同じに果たし得る教材こそこの煎茶道マナーであったと。また今日、小人数化してきている特殊学級では、特に個人の能力開発が要求される中、担任も子供と一体になって楽しめ、力のつく教材さがしは、これからも続けて行きたいものである。
(出典)方円流煎茶道(上)水口豊園、著
〒606 京都市左京区岡崎入江町 TEL 〇七五(七七一)三二〇七
図1
図2
(6)障害児教育センターだより11号
座談会
シリーズ どうなる!これからの障害児教育(1)
−小学校−
奈良県教育委員会学校教育課
指導主事 岡 田 利 武
生駿郡平郡町立平群東小学投
教 諭 中 村 佐喜雄
大和高田市立土庫小学投
教 諭 田 中 文 嗣
司会 奈良県立障害児教育センター
研修主事 今 西 政 弘
<障害児学級の今、むかし>
(司)今西 お忙しいところを出席していただきどうもありがとうございます。さっそくですが、先生方の障害児学級との出あいの頃をおきかせ下さい。
田中 僕は昭和44年に勤めはじめたのですが、その頃、障害児学級は今にくらべて少なかったですよ。大和高田市、北葛城郡をまとめて20数人の担任でしたか。今から思うと、障害児学級は、ことばはわるいですが学校のつけたしでしたねえ。まず教室からして今とちがいましたよ。保健室からも遠かったし−ただ便所には近かったですがね(笑)しかし、その代りというか、教師の力量は徹底的に磨かれたよき時代だと思うのですよ。担任は背に腹はかえられず、がんばらざるを得なかった−
岡田 昭和42〜43年頃といえば私が大淀中学校に勤めていた頃です。今の話を聞きながらその点大淀中学校での位置づけはよかったなあと思う。教室も保健室の側でしたしね、職員室からも近かったですし障害児学級運営委員会もありましたよ。 、
中村 私は37年教員をして来て、斑鳩の小学校ではじめて障害児学級に出あったのです。はじめ僕が担任するといったら「遠慮せえ、あれは退職まざわの人がもつのや」と言われたりしてねえ(笑)
その頃の子は、能力的には、軽かったですよ。それでも、当時養護学校がなかったですから、その子達は就学猶予や免除をうけていたのですよ。教育をうける権利より「恥かしい」という思いの万が強かったのでしょうね。障害児学級といえば昭和37年頃から45年、48年頃にかけて急速に学級数がのぴていったと思うが、あれは健康優良学校とのかかわりも当時ありました。障害児学級は健康優良佼の条件の中にあったんですよ。
(司)今西 学校によって障害児学級はいろいろな事情の中におかれていたのですね。
そして昭和38年学習指導要領ができたこと、また昭和54年養護学校が義務制になったという節目を経て、ステップをふんで組織的な広がりと理解が深まったということでしょうか。ところで、昭和43年頃だと思うのですが、「くらしの手帳」社長花森安治さんが、言っていたことばに 〃障害児の問題は、絶えず訴えつづけなければ、完全に理解してもらうことはできない。訴えつづけることに意味がある”と−。十年程障害児教育に携わって来て、このことばをきいた時はホッとしたことがあるんです。
今度は少し理解・啓蒙ということで話をして頂きたいのですが。
<あなたの啓蒙指数はいくら?>
中村 理解してほしいということを前面にかかげると、教育は重くなる。私は”子供をかえるんだ。それが理解につながるんだ”と考えて来ました。だから懸命に子供の教育にとりくんで、皆就職させて行きました。当初恨まれたこともありましたが、15年程たって「ああ、あれでよかったんですね」と親に感謝される。これが理解ですよ。
岡田 そういう息の長さが大切なんでしょうね。例えば今、理解推進の取り組みがなされ、推進校も決まっています。その推進校でも、学校全体の取り組みとなると、これはなかなか難しい。理解推進をはばむ心がどこかにあるんでしょうね。世間一般の関心も、そういうところがあると思うんですよ、一見関心は深まったかに見える。しかし中に入ると、外見とはちょつとちがう
中村 僕はそういうのを「啓蒙指数」ということばでね、「啓蒙指数は、どう?」とか考えてみる。(笑)学校のことで思うと、まあいろいろ指数がでるがそれは管理職のあり方に関係しますね。学校長の姿勢によって、啓蒙指数があがったり、さがったり−(笑)ながいこと障害児学級を担任して来て、今それがわかりだして来ました。
(司)今西 学校長のお話、もっともですが、校内体制とかかわって、学校全体の研修も大切だと思いますが。
岡田 立場上、校内研修会には要請されてよくまいります。要請の目的には、障害児の理解、交流教育が多いのですが、強い要請の割には、ほんとにわかっているのかなと凝われるようなことがあります。いきなり「この子の交流をどうしたらよろしいですか」と聞かれる。それこそ学校全体の取り組みで「どのようにすすめる」かとまず考えていてほしいことであるのに、考えられていないとか。
田中 僕もあらこら行きますが、こちらから逆に「どう考え、どう実践してくれていますか」とお聞きすると実践以前の段階、考えてもくれていないことがあるんです。
<担任者よ、強くなれ>
岡田 不満はあるけれども、結局私達自身が頑張らなければいけないんですよ。もっと「この子たらのための−」という活発な意見を出しましてね。
中村 そう!正当性のある意見は担任が言わないと、だれもわかってくれない。最近の先生はその点弱いと思いますよ。他力的というか、自立力がないというか、人間的愛に欠けているというか。だいぶ悪口を言ってしまいました。しかし、障害児学級の公開授業をする位の気力や、専門性がほしいですねえ。
田中 やはり、お互いに、授業研究をどんどんやって、公開授業もし、ポロクソに言われながら育ちたいですね。
岡田 結局、障害児学級を、どんと腹、腰をすえて、三年以上もつという人がいないことも関係するでしょうかね。私などは、少なくとも三年間以上と願うのですが、現状では、二′三年で代わられるのが多いですね。まあ考え方によっては、一人が持つよりも次々と、交替することによって障害児の実情をお互いわかりあえるということもあるが−
田中 いや、やはり持ち手がないんですよ。だから、二〜三年という年限は辛棒できる年限なのでしょう。もう少し、そこを辛棒してくれたらなあと思う。三年目位が壁でしね。そこから高められる。そこからやり甲斐があるというところで、担任を止める。これは惜しいですね。
中村 僕もそう思いますよ。障害児教育にはカタルシス(浄化作用)がある。これを続けることの中で自らが、人間として高められるチャンスなんだととらえるんですがねえ。
<今求められている障害児教育センターの力>
(司)今西 障害児学級の担任として高まるということは、即教師として高まるということでもありますよ。「この子は障害児だ、普通児だ」というレッテルはりの中からは、教師の力はつかないと思います。原点にかえってこの子は何ができて何ができないかをよく見極めることのできる教師になる。この力をつけることが、即教育力だと私はとらえているのです。その意味で、障害児教育センターへの苦言なり、提言なりを頂きたいと思います。
田中 僕は今、土庫小にいるのですが、障害児学級が少人数なのです。かっては精神薄弱児学級二学級ありましてあわせて17人いたこともあったのですが、この時の指尋の困難さと、また少人数指導の困難さはらがうものがあります。今二人の子を指導しているのですが、どこに焦点をあてで、一日の流れをどう組むか。これもまたむずかしいのですね。子供に合わせてと言うことで最近はどこの学校も少人数化を望んでいます。ところが現実に少人数化した時は、そのやり方の上で悩みやジレンマが生じるということに気付きました。少人数教育ですから、可能な限り通常学級と交わることも必要になって来ます。かと言って皆の中にいるだけがいいのか。それでよくなるのかというとそうじやない。とにかく、今このあたりで教師の専門性がとても求められて来てると思いますよ。少人数化すればする程ね−。それは子供の実態をどうとらえるか、カリキュラムをどうくむか・・とか。
岡田 確かにそうですね。先程から障害児学級担任の任期の話をして来ましたが、今担任を支えてあげる力も必要なのでしょうね。この子をどう指導したらいいかと悩んでいる先生の相談にのってあげる。そのことで担任の先生は育っていく。障害児教育センターの教育相談は、その意味で親と子の相談であると同時に、担任の研修につながっている。相談は研修でもある。
中村 そうそう。障害児教育センターは、「指導」と「研修」と、そして障害児学級担任に「勇気」を出させるような営みが求められているんですよ。私は思うのですが、障害をもつ子供につけてやりたい力は今も昔もかわらない「生活力」なのですよ。その生活力はその子の特性の中から出て来るものですよ。その子その子に合うような勉強をさせなければいかんと思うのです。子供の指導についていうなら単なる学力とか言わず、もっと全体的にみなければいかんという−
田中 その点についても「指導」のありようを研修しなければならないと思います。
障害児教育諸学校の先生は、かなり研修のチャンスがあると思うのですが、障害児学級担任の場合、研修の場が少ないのです。しかも担任としてプロの力を求められているんです。担任の研修の場をどうするか、これはこれからの課題だと思います。
(司)今西 その指導力、研修の場を障害児教育センターに求めてくださるお気持はありがたいのですが、もう一歩、地域ブロックによって、指導力が育っていくということを私達は考えているのですよ。地域ブロックの財産づくり−指導力−をたかめることが大切だと思います。
田中 たしかに、今、教師にも親にも「やさしさとあたたかさ」が求められ、かつ、実践力が求められています。口先だけのヒューマニズムでなく、本気でとりくむ実践力です。
中村 特に障害児学級の先生は自らを高めることや学問、というか研究も大切にしなければならんのでしょうね。
岡田 それと同時にいろんな経験でしょう。やさしさと一口に言って実際にはわかりにくい、暖かさといってもわかりにくい。特に最近は兄弟の数も少なく、いろんな体験経験が不足している。教師自身が人にかかわる仕事をする時、結局はいろんな経験の中から身体を通して知る人間性のあたたかさが必要なんでしょうね。
(司)今西「教師の人間性を高める.」これにつきると思います。今日は有益な話ありがとうございました。(S・62・2・12)
S・62・3・10発行 下線は、中村先生が蛍光ペンで打たれた部分。
(7)山陽放送 NHK岡山 テレビ放送より
以下の文は、山陽放送とNHK岡山のテレビで放送されたモンテ微塾の番組のビデオからテープをおこしてワープロで打ち文章化したものです。著作権はそれぞれの放送局に属します。
山陽放送は中村先生がモンテ微塾を開設された当初 1987年昭和62年放送
NHK岡山は2年目1988年放送
1)山陽放送 コミュニティチャンネル「スタジオ11」
1987年放送
音楽療法で障害児教育
司会 「今日最初の話題です。岡山市下足守にモンテ微塾足守仲良しホームという塾を開いて障害児などの教育に取り組んでいらしゃいます中村佐喜雄さんに今日はスタジオにおこしいただきました。こんにちは、ようこそいらっしゃいました。どうぞ、よろしくおねがいします。えー中村さんは奈良県のご出身で39年間奈良県下で小学校の先生を勤められまして、今年の三月、退職と同時にですね、ま、いってみれば、縁もゆかりもない岡山に来られて、第二の人生を、おくられることになったわけなんですけれども、この岡山で新しい教育に取り組むことになったいきさつというのはどういうところからですか?」
中村先生 「そうですね。ちさい子供さんというのは、特に問題のお持ちのある方は、お母さんの教育が必要でして、それは学校ではどうしてもできなくて、私はそれを死ぬまでにやってみたいと思っておりましてものですから、環境の良い所を選んでおりまして、この地を選見つけた訳です。」
司会 「岡山に非常に教育環境としてすばらしい場所があるということで。」
中村先生 「そういうことで選ばしていただきました。」
司会「そうですか、中村さんの塾は、実は私財をつぎこんでつくられた訳なんですけど、塾の名前がモンテ微塾足守仲良しホームという非常に一見ユニークな名前がついているんですが?」
司会 「微塾というのはどういう意味なんですか?」
中村先生 「微塾といいますのは、教育をおこなうにつきまして小さい子の教育ですのでカリキュラムのスッテプが非常に細かい。顕微鏡的な細かさをもっている訳です。ですからまあ微塾という名前にしたわけですね。
それから、ここではモンテッソーリということが大切でして、先ほどの子供さんもこの教育に基づいている訳でありまして、健常児の教育と障害をお持ちの方の教育と同時に教育を行う訳です。モンテッソーリ教育法といいますのは、これはもともと健常児の幼児教育なんですこれはね。ですから、うちではここでモンテッソーリ教育法人間教育法というんですが、これでですね両者一体になっていこうという訳なんです。」
司会 「モンテッソーリ教育法というのは、これはお医者さんのお名前モンテッソーリ」
中村先生 「モンテッソリという百年前のお医者さんですが、障害児教育の教育者でもありました。いわゆる、この方は動物面にメスを入れられ。この図がありますが、お医者さんですから人間は動物であるということで、人間の体質を改善することによって人間性をりっぱにするいう方法でして、これには3つの原則がありまして、ひとつは、環境を整える。ですから家庭環境お父さんお母さんあるいは地域社会、ですから足守が選ばれた訳ですね。環境の良い所。そして、第二番目は教材教具を開発する。こどもさんを伸ばすについて最もいい教材はなんであるか。三つめは、子供は人間すべて動物でありますから、尊い尊い動物ですから、動物特有の衝動性を大切にしながら、自由にのびのびとした教育おこなう。そして、この三つめは、特に本人の力で自分を伸ばす。という3つの原則があります。」
司会 「まあその、ライオンのまんまでは社会生活の中でいろいろ支障をきたしますんで、そんな中で環境に適応できるような人間性を育てていくという意味がある訳ですか?」
中村先生 「そうです、動物といえども人間ですから、この衝動性を調節できる人間らしい教育を行う訳なんですね。」
司会 「これもひとつの教材をいろいろ工夫するというひとつの教材なんですか?」
中村先生 「これは、指導者用の教材です。」
司会 「先生方も塾に来られることがあるんですか?」
中村先生 「子供さんお連れになるときに先生が一緒においでになられますと、私も勉強さしてもらい、先生も勉強でき、お互いに得ですからね。後から効果が良くあがる訳です。」
司会 「今何人ぐらいの子供たちがいらしゃるんですか、塾には?」
中村先生 「37から38人というとこですかね」
司会 「年令は、もうそれぞれまちまちですか?」
中村先生 「そうです、2歳7ケ月から20歳くらいまでの方ですかね。」
司会 「それに親御さんや先生を含めていろんな形で教育に取り組んでいらっしゃる。」
中村先生 「そして、問題のお持ちになる方と、問題のなにもお持ちでない普通の健常な方の学習指導にもおいでになります。」
司会 「で、その現在先生がやってらっしゃる音楽療法ですね、さきほどピアノをひいてらっしゃったのも、モンテッソーリの応用ということですか?」
中村先生 「そうですね、衝動性を高めたりリラックスさせたり、その子供に教育するにふさわしものをピアノによってつくりだす。ですから私が教育しているように見えますが、その子供さんから学んでいる訳です。そうでないと子供が受け入れませんから。絶えず、その子供さんに、なにがいいの?あんたこれでいいの?と問いかけて、ニッコリ笑ってくれたら、お母さんこれだ。これでいこうといく訳。」
司会 「そういう意味では子供さんに教材を選ばせるというそういう形もある。」
中村先生 「そうです、それがモンテッソーリの第2番目の目標です。」
司会 「中村さんは、昭和48年に奈良県で教育選奨を受賞されているんですが、それでは、普段中村先生がどのように教育されているかその様子をみなさんに見てみたいと思います。」
司会 「ここが、岡山市下足守。これはもともと農家だったところですか。そこを改造なさった訳ですね。」
司会 「きこえてきましたね」
司会 「ピアノが鳴っています。」
司会 「これはどういう教育をなさっているんですか?」
中村先生 「お母さんと子供さんと私とスクラムをくんでいますからここで言葉の指導をしています。これは笛を使っていますが、音楽の指導でなく人格をつくっています。将来自立に必要な人格、好ましい人格ですね。」
司会 「先生マスクをおかけになっているのは、これはなにか意味があるんですか?」
中村先生 「まあ歯が悪いことと、それから子供の顔を接近して指導しますので、つばがとんだりしないように衛生的なために使っています。」
司会 「これも先生のポリシーのひとつな訳ですね。このマスクひとつも。必ず教育実践ではマスクを使われる。」
中村先生 「はいそうです。必ずマスクを使います。お互いに安心です。」
司会 「今度はこれは体操みたいですね。」
中村先生 「これは、やはり人格づくり、それから、からだの機能を調節する。特に自立に必要な指示命令に従うということをお母さんがやている。親密なお母さんがやっている訳なんです。私ではちょっとじょうずにできませんね。お母さんだからできる訳です。」
司会 「お母さんの役割というのはとっても大きいですね。」
中村先生 「大切ですねえ。お母さんがしっかりすると子供が全然違うものになりますね。」
中村先生 「この子は、私のつくったテープのほうが好きですのでテープでやっています。」
司会 「こうしたからだを動かしたり教育の中で音楽の果たす役割っていうのはどういうことなんですか?」
中村先生 「情緒の安定、それから集中力を増しますね。一般に考えますと音楽はやかましいのでじゃまになるのではないか、そうではなく集中力が増します。まずその子にあったものを使いますから。」
司会 「じゃ、実際に言葉の指導にも音楽をきかせながらという」
中村先生 「雑念を消してしまう。だから集中します。」
司会 「たとえば、ながら勉強といいましてね。音楽がなってたら気が散るのかなと思いますが。そうじゃないんですか?」
中村先生 「その子にあったものは、トランキライザーの役目を果たします。」
司会 「つづいて、この子は、何月何日というボードがありますね。」
中村先生 「自立に必要な国語能力をつけています。」
司会 「年令も様々ですね」「このお子さんのケースでは、どういうことをやっておられるんですか?」
中村先生 「やはり、対話によってコミニュケーションの力をつけながら、情緒の安定をはかりながら、生活能力まあ国語面ですね、いまのは、」「お話、歌、カードなどいろいろその子が喜ぶものを使います。」
司会 「この子にあう音楽を選び、教材に合う音楽を選ぶということになるんでえすね。」
中村先生 「そうなんです。絵カードをくってますね。お母さんが一生懸命先生役をしています。だから私が先生でなくお母さんの助手という感じですね。お母さんが最高の先生ですから。」
司会 「でも、中村先生もね、ピアノの伴奏をしながらいろいろしゃべりながら指導しながらというのはたいへ
んですね。」
中村先生 「そうなんです。でも、こどもが喜んでくれるとやってて楽しいものですよ。」
司会 「来られた時と帰れたときとの表情というのは子供さんはちがいますか?」
中村先生 「元気出してね、よろこんでニコニコなって帰ってくれますね。」
司会 「ひじょうに楽しそうに興味をもって子供達が取り組んでいるてふうに見えますね。」
中村先生 「それがモンテソーリの本質ですから。」
司会 「これは、だいたい一人のこどもについて時間はどれくらいかけるんですか?」
中村先生 「だいたい10分ですね。この治療はね。」
司会 「あまり長いとよくないんですか?」
中村先生 「そうなんです。十分させますとね、かえって次のやる気をなくしますので、タイマーで切ってしまいますね。」
司会 「たとえば本なんかを読んでましたら途中で終わってしまうていうことがあるんじゃないですか。」
中村先生 「そうですね。ある時点で切ってしまって、ああ次も読みたいのになあというのはまた帰ってお母さんとやりなさいということになりますね。」
司会 「逆に、全ー部、おなかいっぱいたべてしまうと良くないと言う。」
中村先生 「そうなんですね。」「国語指導ですね。健常児の国語指導ね。」「やはり、お母さんと一緒に文章の読解力を高めています。」
司会 「ここでも音楽が使われているんですね。」
司会 「リラックスするための音楽。」
中村先生 「そうです。リラックスと集中、両方しなくちゃいけません。リラックスして眠ってしまっては困りますから。不思議な能力を持つんですねえ。音楽って。」「同じく、国語の能力をつけていますね。お母さんも一緒になって楽しくね。これは小学生が一番上ですね。これが大きくなったらできません。小さい時からお母さんの特権ですから。」
司会 「無論、年令に合わせてカリキュラムの内容は違う訳ですか。」
中村先生 「そうです。それが微塾の意味ね。」
司会 「細分化されたカリキュラム」
中村先生 「そうですねえ。」「この方も問題をお持ちでない方の国語指導で、これによって読解力と発表力をつけます。」
司会 「さきほど一人のお子さんが10分というお話がありましたけれど、一週間単位でそういうのが何回か続いていくんですか?」
中村先生 「一週間に一回きてもらっています。」
司会 「一週間に一度。一度10分?」
中村先生 「音楽療法は10分。そして後、これに附随した訓練が1時間ぐらいあります。そして、いろいろ親の指導がありまして、合計1時間半が一セット。そして、宿題をもらって帰る。次ぎ来て宿題を調べ、不合格になりましたらまあそれでおしまい。来なくてよろしいということになります。ですから私たち必死になって腕を組んでいます。」「これは、言葉の発音を直しています。英語を使って。」
司会 「英語を使うというのは意味があるんですか?」
中村先生 「英語をこの子はもう少し勉強したほうがいいというので、同時にやっています。発音の強制と英語の学力をつける、そうすると能率がいいでしょう。」
司会 「なるほど。」
中村先生 「良くなっている子です。」
司会 「おもしろい機械を使ってらっしゃるんですね。」
中村先生 「これは血圧計のゴムをはずしてきて、お酒を計る漏斗を引っ付けてやったんです。」
司会 「あれはなにをされてるんですか?」
中村先生 「耳が悪いので細かい発声を聞き取って強制する。教育の道具です。私のね。」
司会 「なるほどねえ」「じゃ、道具を自分のアイデアでいろいろ作ってらっしゃるんでね。」
中村先生 「その子供さんに喜んでもらう物を。子供さんに受け入れられなければ、どんな良いものでも教育に
使えませんからね。」
司会 「子供達がよろこべば、お、これだ。となる訳ですね。」
中村先生 「だから、見ておって、ニッコリ笑ってくれる。ニッコリ笑ってくれる。」
司会 「どうですか、御父兄のみなさんはどういうふうなことをおっしゃってますか?」
中村先生 「お陰様で、勇気だしていていただきますのでうれしいですね。勇気だしていただいたら、子供が良くなりますから。これが最高の喜びですね。学校でできませんでしたこういうことは。」
司会 「退職と同時に岡山に来られて、新しい環境での教育に取り組んでいらっしゃる訳なんですけど、これからモンテ微塾、どういうふうな形に発展させて行かれるおつもりですか?」
中村先生 「そうですね。やはりこういうように教育、特に幼児教育をやっていきたいということと、成人の問題をお持ちになる方のミニ作業所のようなものに発展させていきたいと思いますね。自力でやる。他人の援助を受けないで自分の力で立っていくもの、親と一緒に協力して、そういう方向、ミニ作業所、授産所のようなものにもっていきたいですね。私が死んでからそのようになって欲しいと思います。」
司会 「いま、60才ですね。」
中村先生 「そうです。あと17年間ね。平均寿命までやらしていただきたい。」
司会 「なるほど。もう平均寿命の計算まで。」
中村先生 「そして、後は、特別養護老人ホーム。これも岡山はいいところでしてね。安心してね。」
司会 「じゃもう、とことん取り組んでいくと。子供達と手をくんで、お母さん方と手を組んでということですね。今日は、ユニークな教育に今、取り組んでいらっしゃいますモンテ微塾足守仲良しホームの中村先生にいろいろとお話を伺いしました。どうもこれからもがんばって下さい。ありがとうございました。」
中村先生 「どうもありがとうございました。」(山陽放送局)
2)NHK岡山放送局 1988年放送
モンテ微塾足守仲良しホーム
登校拒否児など60人が集まるモンテ微塾。ここでは、音楽の快い刺激で、子供達の心を開かせようという試みが行われています。塾がスタートして1年9ケ月。自閉症の幼児がことばをしゃべったり、登校拒否を続けていた中学生が、学校に通うようになりました。指導にあったっているのは、中村佐喜雄さん。奈良県の小学校で25年のあいだ障害児教育一筋にとりくんできました。2年前に定年をむかえ、退職後も今までの経験を生かした教育を続けたいと塾を開くことにしたのです。モンテ微塾は岡山市郊外の足守にあります。建物は10年以上空家だった古い農家。中村さんは豊かな自然の中にあるこの家が気に入り、知人もいない岡山で第二の人生をはじめることにしました。一人暮らしの中村さんは、障害児を孫のように思っているといいます。恩給で暮らしながら月々2000円あまりの維持費を集めるだけで指導を行っています。朝9時から開かれているこの塾で、子供に直接教えるのは母親の役目です。先生は傍らで見守り、アドバイスするだけです。「親が教師だ、私は助手。親が教授で、私は助教授。親子の間柄というのは、一番安心できる。だから、グイグイグイグイと毎日やってもらえればいい訳。そして成果があがったら、お母さんようがんばったね。先生うれしいよと、一緒に喜ぶ。」音楽療法の教室が始まりました。中村さんは一緒に歌を歌ったり楽器を演奏したりしながら、子供がよろこんで反応する音やリズムをつかみます。そして、その音やリズムを繰り返し聞かせ訓練することで、殻にとじこもった子供達の積極性を引き出そうとしています。歌や楽器のほかにも独特の訓練が行われています。ピアノに合わせ国語の教科書を朗読するのです。ピアノのメロディに引き出されるように情景がうかんできます。子供達は訓練を繰り返すうちに、音楽の助けを借りて、短い文章ならば暗唱することもできるようになります。「いままでは、お母さんお母さんと言う感じで頼ってたんですが、それがぼくするとすごくなんでも自分でする気になってくれたりとかありますね。」「知らないひとならすぐ逃げてました。知らない家にいくのもいやがりましたし。」塾の評判を聞いて岡山県の各地から子供がやってくるようになりました。最近では遠く大阪や広島からやってくる親子も現れています。週に一回通ってくる県外からの子供のために宿泊施設もつくりました。ベッドメークやそうじは、近所のお母さんたちがボランティアで手伝ってくれています。中村さんの音楽療法の試みは、少しずつ地元の理解も得られるようになっていきました。「キラキラ、キラキラしたね、してきなものが見えるんです。障害者や子供と接してたら、それで、それをのばして、それを自立に役立てよう。そして、親が死んだ時に、後ですね、施設にいってもどこに行ってもいいから。人間らしい暮らし、生きがいを、ね、学ばしたいなあと思って。」子供を最終的に導けるのは、母親しかいない、という中村さん。これからはここで学んだ母親一人ひとりが先生となって、音楽療法の輪を広げて欲しいと話していました。
(報告 倉森京子/NHK岡山)