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 岡山の中村先生追悼集「モンテ微塾に学んで−故中村佐喜雄先生を偲ぶ−」より
岡山モンテ追悼集


   (1)中村先生の思い出   岡山市手をつなぐ育成会 小若 和子
   (2)中村先生との出逢いから最期迄         田中 敏子
   (3)足守にて          ももぞの福祉園  立石 教通
   (4)中村佐喜雄先生を偲んで   元仲良し会会員  山崎 常雄
   (5)モンテ微塾に関わって             藤田 淳子
   (6)編集に関わってみて              赤木 真里子
   (7)中村先生との想いで              河合 允子
   (8)モンテ微塾中村佐喜雄先生に導かれて      藤原 和美
   (9)私は、けったいなモンテ微塾生         吉本 健一朗
   (10)アンケートより 



 (1)中村先生の思い出

                岡山市手をつなぐ育成会 小若 和子

 昭和61年の初夏、岡山駅でハンチング帽をかぶった小がらな人を私は待っていた。
 なにぶん一度もお目にかかったことのない人なのでうまく見つけることができるか心配だった。やっとそれらしい人がホームから出てこられ声をかけた。そのお方が中村先生だった。奈良県の小学校で25年間、障害児教育に携わりこの春退職され私財を投じ、空き家になっていた足守の農家を補修し塾を開設されたのである。
 それも音楽療法などで障害児らの持っている能力を開発しようとその名も“モンテ微塾足守仲よしホーム”と名付けた。
 先生は岡山は始めてで身寄りもなく育成会をたよりにこの自然の美しい足守の里を退職後の居住地に選ばれたのである。
 先生は幼児教育で知られる「モンテッソーリ教育法」をとり入れ音楽療法などで豊かな人間性を身につけるように指導された。
 開設されて一年余りすると徐々に教育の成果が表れ、岡山県下だけでなく広島や四国の方からも通ってくる母子がいた。登校拒否を続けていた中学生や自閉症児、知的障害児、さまざまな心の障害を持つ子供たちが集ってきた。
 中村先生のボランティア的な塾の運営に、近所の人たちも協力的になり地域の人たちとのふれあいも広がり、中村先生も毎日が充実し、その反面、大変お忙しい日々が続いた。
 夜もろくに寝られず、いろいろ学習などについて考えられたりして身体に無理が重なり寿命を縮められたのではないかと残念でなりません。
 中村先生、どうぞ心安らかにお眠り下さい。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。



(2)中村先生との出逢いから最期迄

                        田中 敏子

 中村先生は、奈良県にて「障害児教育」一筋に取り組まれ、昭和60年の晩春、定年二年後に備えて、ご自身の障害児に対する教育方針や、強い信念を続けていきたい、との思いから各地を研究され、岡山の土地柄や人間性に感銘されて、奈良の不動産屋さんを通じて紹介された、山崎さんから薦められた足守の民家が気にいられ、私財を投じて購入
され、生涯の住みかにしようと思われたと聞いております。
 昭和61年初夏に「岡山県手をつなぐ育成会」を通して、「岡山市手をつなぐ育成会」の当時の会長小若さんにお会いになりました。先生が、理想とされている教育方針や障害児(者)への考え方が、ピッタリー致していることと、育成会の親達の思いに大きな共感を覚えられ、旧知の友のように親しみを感じられました。
 昭和62年に入ってすぐに、高坂さんの手によって、民家の物置を素晴しい「学習指導室」に改修され、地元を大切にされる先生のお心もあって、クーラーや電気工事一切は東馬電機さんにたのまれました。・
「快適で思いどうりに近いものになったが、退職金も随分使ったよ。」
と、めずらしく笑っておられたお顔が、今も目にうかびます。
 完成後には、奈良県の大勢の方々からピアノや教材をたくさんプレゼントされ、先生がいかに偉大で、信頼されていたかを痛感いたしました。
「モンテ微塾足守仲良しホーム」の少し長い名前は、先生の教育理念である、モンテッソーリ方式をより微細なものにし、育成会がやっている仲良し作業所から仲良しをつけて命名されました。
 昭和62年8月開塾され、当時は育成会から聞いた親子が数組、指導を受けておりましたが、新聞紙上やテレビ等のマスコミ報道で何度も取り上げてもらい、中、四国からも先生を頼ってこられるようになり、モンテの予定表を書き込む黒板はビッシリ埋まり、本当に何時お休みになられるのだろう?と思ったものです。
 私も当初は、育成会のボランティアとしてお手伝いに行っておりましたが、長男も近所のお友達と週一回指導を受けながら、ボランティアを続けさせてもらいました。
 昭和63年には、一周年祝賀会を開催されましたが、細かいところまで心配りをされ、準備係の私に何度も電話やモンテに伺っては本当に緻密に皆さんに失礼のないようにと、お忙しい時間をぬって打ち合せをしました。電話がかかるのはいつも授業の終わった夜11:30分頃で、それは亡くなるまでかわらず、私はよく、“11:30分の先生”と言っていました。
 平成3年4月に持病の手術を止むなくされました。皆の説得にしぶしぶ承諾され、2週間余りの入院治療をされましたが、「心配かけるから生徒さんには、絶対知らせるな。」と言われ数名のものでお世話させていただきました。
 術後少し体調がよくなると、ペットの上で、教材のこと、生徒さんのことをいつもノートに書いておられました。少しお休みに、といっても「自分の身体は自分が一番よくわかる体調は良好」その言葉に、先生の生き甲斐だからと思うことにし、以後は今日も良好ですか?とお聞きする程度にしました。
 その年の8月には、3周年と全快祝を病院の執刀医師も招かれ、一周年同様にきめ細かい配慮で、賑やかな楽しい雰囲気で、先生も大変喜んでおられたお顔が、今も脳裏にうかびます。
 先生は、まがったことが大嫌いで、ご自分にも親の態度にも厳しく、しかし、心の中は非常に温かく、地域ボランティアや福祉に、理解、熱意のある方を大切にされておられ、正直な人、誠意のある方を見抜く目は鋭いものがおありでした。
 平成5年育成会県大会(笠岡市)で表彰されたときには、嬉しそうでした。何日も前から朝、何時にモンテに迎えにきて、自動車道はどのくらい時間がかかるか等、よく電話があり、ついつい、私も先生“運転手に任せておいて”と言ってしまったこともありました。帰宅されて「今日は本当に楽しかった、ありがとう。」といってくださったとさには、「あんな事を言ってごめんなさい」と、言ったことも思い出になりました。
 先生は眼の方も悪くなり、持病の心臓でニトログリセリンを服用されており、毎日の発作の回数や、強弱を細かく記録されていました。それを見せられる度に、「入院して治療を受けてください。」とお願いしましたが、「10年間は思うように障害児(者)のためにやりたい、そうしたら老人ホームに入って、教え子が時々訪ねてさてくれる、そんな人生が希望だから。」と、いつも頑張ってくださいました。
 モンテのその後も考えておられ、よく話してくださいましたが、平成9年12月1日あまりにも、あっけなくご逝去なされ、大勢の親子や、沢山の人々が、お礼を申すこともできませんでした。
 平成8年秋、育成会の有志が、先生の所を訪問させていただき、楽しくお話をして、食事をし、お水公園をまわったこと、時々、軽食を作って食べていただいたこと、奈良県や各地から、何度となく研修にこられ、浮田温泉までボランティアをさせていただいたこと、そのことを通して素晴しい教えをいただき、私には忘れることのできない人生の一ページとなっている10年余りの日々です。
 先生が亡くなる一週間前朝早く訪ねて、お話をして、缶コーヒーをいただいたあのときのお言葉、お姿を脳裏にやきつけて、自分の信じた道をがんばっていきます。
 先生、本当に充分なボランティアができなかったのに、お力添え、御指導くださいまして、有難うございました。70年間本当にご苦労様、でした。ごゆっくり安らかにおやすみください。


(3)足守にて

                    ももぞの福祉園  立石 教通

 奈良から足守へ引っ越されたその夏、中村佐喜雄先生は、一人の聴覚障害児を預かっておられた。家が近いこともあり、その彼が次男と同学年ということもあって、庭でバーベキューをしたり、泊まったりしていい友達になっていたようであった。
 以降、何かあると声をかけて下さり、親交を結ばせていただいた。お互い障害児の話になると熱が入り、夜遅くまで激論を交わすこともあったが、「この人は実に頭の切れる人だ」と感心させられること度々であった。
 私ども、ももぞの学園関係の職員とも親交が生まれ、特に社会福祉法人主催のバザーには絶大なる協力をいただいた。
 中村先生が住んでおられたのは、足守の中でも「寺坂」(てらさこ)と呼ばれているところで、近所にはアメリカ帰りの陶芸家がおられたり、スェーデン在住の経験のある染色家がおられたりで、いわば足守の“カルチャーゾーン”でもある。その一つであったモンテ微塾の灯が消えたことは寂しい限りである。
 足守住人の数人の知己と年に一度「どじょう汁」の鍋を囲むことを楽しみにしておられた。私も何度か参加させていただいたが、その機会もなくなってしまった。
 足守中学校区には、小学校に一学級と、中学校に一学級の障害児学級があり、ももぞの学園も知的障害児・者の施設であるが、その福祉的土壌は耕されているとは言えない。その意味からも中村先生のモンテ微塾を通した実践はこの上なく貴重なものであったと言える。
 バス通りからモンテ微塾への道側に五階建のケアハウスが建った。その辺りを歩いていると、マスクをされたバイクの中村先生に声をかけられそうな気が今でもする。


(4)中村佐喜雄先生を偲んで

                   元仲良し会会員  山崎 常雄

 中村先生との出合は、昭和61年の晩春と記憶しております。足守の地に広い宅地、大きな建物を入手せられ、今は奈良の小学校で障害児の教育を担当しているが、後二年すると退職です。退職したら足守の地で障害児のために余生を賭けたいと申されました。私は思いました。小柄な難聴な此の先生が知らぬ土地で結構成り立たせて行くんだろうかと不安を覚えました。すると二年経った夏に足守の地に踏み込まれました。私は四、五人の友達に集って貰いお迎へした次第です。
 先生は酒も好きな様子で、夜遅く迄、楽しく過しました。月一回は集っては話し合い、後で一杯に話を咲かせました。
 段々と先生との付合いも深まり、モンテ塾を褐げ、仲良し会を発足させました。先生の仕事は日増に塾生が増え活気に溢れた家になりました。その繁栄を手伝ってか、先生の難聴も少し遠のいた感じを抱きました。私ばかりではなかった様で仲良し会の皆さんも異口同音に云つておられました。
 黒板の行事表も小さな字で一杯に記され、月々の塾の様子を知らせて下さった御苦労は大変な業と思いました。障害児教育に取組んだ熱心さ、質素倹約、人に接する丁重さは私達手本にさせて頂かねばと感銘している処です。
 また、先生が障害児教育に得意とする音感教育を取組んでの指導は、自負そのもので、遠く広島、四国方面からも来園され、その成果を高く評価されたものだと思います。
 また、出身地、奈良の方面からも、続々と視察に訪れ退職後十年程の間、本当に無心に障害児の為に果された姿は他に比類するものがないと、御尊敬申し上げる次第です。
 今も思い出の一人として脳裏に浮んできます。お亡くなりになった年の賀状には、今年は愈々天国ツアーだ、と書かれていました。本当の事になって残念でたまりません。先生の御冥福を心からお祈り申し上げつつ筆を置きます。



(5)モンテ微塾に関わって

                            藤田 淳子


「今度引越してきた人ピアノを教えてくれるんだって。いっしょに教えてもらわん?」という先生と同じ町内の方の一言がモンテと関わるきっかけでした。子供二人がピアノと英語を教えていただきました。
 年末に足守の保護者数人が「先生おそうじしましょうか。」それから月一回程度おそうじしたり、七夕会、クリスマス会など障害児・健常児いっしょに楽しみました。
 ご存知のようにモンテのことは先生の考え方中心で、先生とつき合うにはちょいとコツが必要でしたね。それが先生の個性でありモンテ教育の根本なのでしょうね。
 モンテと関わったおかげで障害者の方が少しは見近になりましたが、先生が亡くなった後、保護者の方々とお話しできたことの方がプラスになりました。理屈じゃないですね。考えるほどにむつかしい!!考えるより実際に接すること。等々いろいろ考えさせられたモンテその後です。


(6)編集に関わってみて

                         赤木 真里子

 私が講読していた、障害児教育に関する本の中で、中村先生が紹介されていました。それを見た時、ああ、この先生に会ってみたいと思つたことが、私達親子が先生と出会うことへと繋がりました。そして、今回編集に携わって、モンテ微塾に関わられた方々の思いを拝見し、先生が色々な形で皆さんを力づけ、励ましてこられたことを改めて強く感じさせられました。
 ご自身のことよりは、障害のある子供達のことを考えて下さいました。
 時には、親であっても自分の事を先に考える事もあって、しんどくなることもありましたが、そんな親の姿勢にも先生は、「出来ることをすればいい」と荷を軽くして下さったこともあったなあーと思い出します。
 先生!何処かでこれからの皆んなを見ていて下さるでしょうか?今頃先生はよく頑張ってるなあーと喜んで下さってるでしょうか?子供も十年間の学校教育とは別の多くのことを教えて頂き、人としての自信を身につけてくれたと実感しております。本当に素晴らしい出会いでした。ありがとうございました。



(7)中村先生との想いで

                              河合 允子

 中村先生に初めてお会いしたのは、昭和62年9月に岡山市育成会へモンテ微塾の説明にこられた時でした。帰宅して早速主人と相談して、中村先生に電話をかけ予約を入れて頂きました。その日は、息子の小学校の運動会の日で、特殊学級の役員をしていたこともあり運動会を欠席することが出来ず、参加しました。出場した競技中にアクシデントが起き顔、手、足に怪我をしてしまい痛くてすぐに氷で顔を冷やしましたが治りません。それでも、先生と約束していたので親子三人でモンテに行きました。
 先生は、これだけ怪我をしていながら、子供の為に来たことにとても感動し喜んで下さいました。私達はその場で先生の指導を受けたいと決心し、通塾を始めました。その内に、家庭訪問をして家庭での子供の様子を見たいと言われ主人がモンテまでお迎えに行って、家に来て頂きました。
 先生はお酒が好きなこともあり、私の自慢のタコ焼きとお好焼きを肴に、先生と二人で酒がすすみ、話が弾んでいました。時間がすぐに経って足守迄送る事になりましたが、酔いと疲れもあってか、車中で眠ってしまわれ自宅に着いて先生を起こしました。あの時の事は、忘れられません。
 先生と酒を酌み交わした、最初で最後となってしまったあの時が、今は懐かしい、大切な思い出として私達親子の中に残っていくことと思います。                   



(8)「モンテ微塾」中村佐喜雄先生に導かれて

                         藤原 和美

 故中村佐喜雄先生は昭和62年8月、岡山市下足守に「モンテ微塾」を設立されてから10年3カ月、全身全霊を障害児教育に捧げられて平成9年12月1日朝日の昇る頃、一人静かに天国に旅立たれました。
 私は長男を通じて親以上の恩師、中村先生に巡り合えて9年近く毎週土曜日には、必ず二人の子供と共に先生にお会い出来る事を生き甲斐にしてきました。当初は運転免許もなく、自宅からモンテ微塾迄26kmの道程を自転車とバスで、大井行バスに乗り遅れたら電車で足守駅迄行き、バスに乗り換えて中之町で下車、古い街並みを通り道端のタンポポを摘み、モンテで習い始めた歌を唄いながらの行程は、4歳と2歳の兄妹にとっては、まるで遠足にでも来てるように思い、はしゃいでいました。
 少し傾斜のあるのどかな田園風景の道を行くと、そびえ立つように見える古い農家の建物がモンテ微塾です。足守の歴史を感じさせるその家にはピーンとはりつめた寡囲気がありました。玄関を入り奥の襖を開けると中村先生が正面に座り、書き物をしながら「やあーいらっしゃい。」と迎えて下さいました。早速勉強に取り掛かり、最初にするのはレジ打ちです。お菓子やアイスの空さ箱を手にして食べたそうにしている子供達、モンテでは飲食は許されませんので長時間かけて来た子供達には、きつかったと思います。一度だけ先生手作りの薬草茶を下さいましたがその味にびっくりして、それからは我慢が出来るようになりました。
 ネオンプライトやタイガー計算機、サイコロになぞり書き、ビーズ通し音楽療法等どれも我が子に適した教材でした。1分間の正座は苦手で嫌がり、パニック状悪になっていた子が、親子で向かい合ってタイマーが鳴るまでにらめっこが出来た時は、感激と愛しさで思い切り抱きしめました。
 中村先生のご指導の成果がみるみる表れ、私も息子と共に変わっていきました。「お母さん、この難しい子をようここ迄大事に育てたなぁー大変やったろう」と言って下さった一言に今迄の苦労が報われたような、穏やかな気持ちになり、もっと頑張らなければと前向きな私に変わっていき、中村先生に巡り合えた事で母として修業を積むような貴重な土曜日となり母と子供達の原点になりました。
 或る時、先生が「どうして障害児が生まれるのか解りますか?千人に一人、五百人に一人生まれるんや、たまたま我が子やった、ただそれだけのことや・・・」淡々と話された時、それまでは子供の将来への不安や母親だけに覆いかぶさる責任につぶされそうな日々でしたが、その言葉に救われ、1,000人に1人500人に1人に選ばれた子と思えて、勇気が湧いて子供達が一層愛しくなったのです。通塾から一年程して運転免許が取得でさ先生は大変喜んで下さり、「いつか奈良に帰りたいなァ、その時は乗せてってくれるか」とおしゃったあの時の約束を果たせないままに、H,9年11月29日最後の土曜日、いつものようにご指導頂き、障害児教育にかける情熱を話され、明日は奈良から見学者を迎えるのでと、早めに授業を終えました。一年程前から子供達に必ず帰りにお菓子とジュースを下さいましたが、その日の先生のお姿が妙に小さく、痩せて見え不安を感じてお顔をまじまじと見たのがお別れとなりました。11月30日懐かしい奈良の皆様にお逢いになられ、無事お見送りできた安心からでしょうか?翌12月1日、東を向いて日の出を迎えるかのように横たわり、まるで眠っておられるようだったと聞かされました。
 連絡を受けてすぐに先生のおそばに駆け付けた時のお顔は、「やれる事はすべてやったんや、我が人生に悔いはなし」と、言っておられるような清々しく満足されたお顔でした。私達親子だけではなく、甥や姉弟も何かと相談にのって頂き、助けて頂きました。これからも様々な辛苦があると思いますが、先生から教わったことを心に刻み、道を開いて行きます。
 なんとかして文集をと、思いながらも捗らず、諦めきれず、暗中模索の時に相談した田中さんから“中村先生の障害児とその家族に対する深く温かいご指導は誰の心にも同じ思いじゃないの”と言われ具体化してきました。河合さん、赤木さんも惜しみない協力をして下さり、岡山での中村佐喜雄先生の生きざまが追悼集としての形になりました。ようやく先生に喜こんでもらえそうです。
「モンテ徹塾足守仲良しホーム」の灯は、いつまでも皆の心の中で輝き続けていきます。



(9)私は、けったいなモンテ微塾生
 
                         吉本 健一朗

 私がモンテ微塾に通い出したきっかけや、目的は、他の塾生とは違うものでした。その当時、私は、二十歳で職ももたず、昼夜逆転の生活をして、性格もすさみ、暴力的傾向が強く、親からも見限られた人間でした。
 そんな私を見るにみかねた叔母が、中村先生に相談してみたところ、モンテ微塾の趣旨とは少し違うことながらも先生は気軽に「一度、連れてきたらどうや、どんな子か見てやろうか?』と、言われその言葉に、叔母は藁にもすがる思いで私を、半強制的に大阪から連れてきて、モンテ微塾へ連行していったのです。連れてこられた私はというと、『叔母さんが、あんまりしつこく言うし暇やから来たったけど。マスクして、忙しそうにバタバタしてる、元気だけが取り得そうな、オッサンが何の話しがあるんじゃい。』ぐらいに思っていました しかし、いざ、話しをしてみると、ボンクラな私を、頭ごなしに叱りつけたり、力付くで矯正するのでなく、膝を曲げて私と同じレベルまで降りることで、対等に話しをしようとしてくれる。でも、私の間違っているところは理路整然と感情に走ることなく、ゆっくりと教えてくれる。そんな先生の指導に触れ私は、『けったいなオッサンやけど、たまに遊びに行くぐらいエエやろ』と思い、ここに少しけったいな、モンテ微塾生が誕生したのです。
 それからは、週に1−2度塾が終わった夜遅く、先生の好きな酒を一緒に飲みながら、お互いに郷里の関西のことや、先生の教師時代のこと、先生の家族のこと、私のゴンタ歴等ほんとに色々な話しを深夜まで付き合ってくれました。
 話しをする時の先生は、面白おかしく、しかし、所々に、私に対する示唆を含ませ、ゆっくり、ゆっくり時間をかけて様々な事を教えてくれました。
 『あせらんでエエんや、ゆっくりでエエんや、出来へんことは出来へんでエエ。でもいつか出来る思うて、諦めんとゆっくりやって行きや。』 先生は何度も何度も繰り返し言っていました。
 あれから十年近くが過ぎ、その間に私は、就労しながら夜間高校に進学、卒業しました。現在は、会社員として、平穏な生活をしています。あの時のあの先生の一言が無かったら私の人生は、全く別のものになっていたでしょう。
 僕は、何とかかんとか元気でやってます。先生はそちらでちょっとは、お酒でも飲んで楽しゅうしてはるかな、いや、先生のことやからこっちに残して来た子供達の事が心配で、やきもきしてはるんかな。先生の生徒で一人、僕のことは心配せんでエエで。先生に言われたように、ゆっくり諦めんとやって行くからな。ほな先生、ほんまに最後に、おおきに、ありがとうな。
 俺がそっちに行ったら、先生の好きな酒でも飲もうな。



(10)アンケートより

アンケートの回答

(1)モンテ微塾に通われた期間


(2)どの位の頻度で、何時間位授業を受けましたか。


(3)どのような教材を使ってどのような指導を受けましたか。

音楽指導
 1.先生のピアノにあわせて、親子で体操をする。
   先生のピアノにあわせて、絵本を読み聞かせる。
   先生のピアノにあわせて、唄をうたって聞かせる。

持久力、体力、集中力の訓練
 1.モールス信号器を使って、音の長短、間隔を聞き分け用紙上
    に書いて信号を覚える。
 2.ローラースケートをつけて、一定距離、歩いたり、滑ったりする。
 3.タイマーがなるまで正座をする。

国語の訓練        
 1.自分の住所、名前を書く訓練。
   筆順ごとに色分けして初めは手を持ってなぞらせ、じょじょ
   に一人でなぞり、書けるようにしていった。      
 2.文字、数字をなぞっていく。
 3.虫メガネでみながら書き写す。
 4.公文式漢字カードを使って漢字を見せ、次に絵を見せて漢字
   の読み方を言わせる。
 5.国語辞典を使って漢字の勉強。
 6.ひらがなのなぞり書きからはじめて、練習させる。
 7.漢字パズルを使って単語を作っていく。
 8.書道によって文字をかく練習。
 9.先生のピアノにあわせ、印象に残ったことを詩にして読む。
10.日記を毎日続けて書くこと。

その他の訓練
 1.刺し子による刺繍。
 2.英語の訓練としてアルファベットから練習。
 3.ネオンブライトを一定時間内にさしていく。
 4.顕微鏡をのぞいて、いろんなものを認識させる。
 5.クーピーペンシルを使って色の認識をさせる。

(4)それらの学習は家庭でも継続されましたか。
 1.家庭にある教材で出来ることは、ほぼ毎日やりました。  34名
  (先生からの宿題も含める。)
 2.家庭では、頑張れる範囲で時々しました。        15名
 3.やりたいと思いましたが、いろんな事情でできなかった。 8名
 4.無回答                        7名

(5)現在も続けて学習されていることがありますか。
 1.極力頑張っております。              29名
  (ピアノ、ローラースケート、算数、国語、その他)
 2.やっておりません。                35名
  (成人したり、先生の指導がなくなり、できなくなりました)

(6)モンテの指導を受けられて、お子さまにどのような変化がおこりましたか。
 ○ 多動だった子ですが、一分間の正座から始まり長時間勉強できるよう
  になりました。根気強く作業することも教えてもらい、勉強することが
 好きになって、真面目にいろんな事に取り組む態度は、健常児の模範に
 なり良い刺激になっていると、学校の先生から言ってもらえてること。
○ 親子関係が安定し、本人に意欲がでて集中力もつき、作業能力がつい
  たと思います。対人関係も改善されてコミニュケーションがとれやすく
  なりました。
○ 非常に勉強を教えにくかった子が、先生独自の指導方法で計算の四則
 やひらがな、カタカナ、漢字の読み書きをマスターし、ピアノもバイエ
 ルンの後半位まで弾けるようになりました。
○ 周囲から言われることが、ほとんど理解できるようになり、自信が少
 しづつ出てきたと思います。             (他5名)
○ 目にみえて成長しはじめた頃に、先生が亡くなりましたがその後、い
 ろいろな面で発達しています。
○ いじめによる不登校で悩んでいたが、子供に対する先生のやさしさ、
 思いやりの心を理解してからは、気持ちが安らいだようです。
○ 中一のころ不登校が続いていたのが、中二の夏頃からモンテに通いだ
 し、少しづつ登校し、中学、高校を卒業して就職、結婚することがでさ
 ました。
○ 全体的に生活力、自立心がついて優しさが出てきました。(他2名)
○ 周囲の人が驚く程、子供が落ち着いてきましたが、一番変わったのは
 親の私で、子供に対してすることに自信が持てるようになりました。
○ 時計がよめるようになり、自分で時間を決めて見通しのたった行動が
 できるようになった。
○ モールス信号やレジを続けているうちに、子供の頭が開いてきたよう
 で、買物に行っても値段を読み、三桁の数字が読めるようになりました。
 ピアノも両手で簡単なものが弾けるようになって驚いています。
                             (他1名)
○ ローラースケートによってブランコ、滑り台ができ、計算器によって
 指の出圧、感覚がついた。
○ 時計が読め、漢字が読めるようになって、大好きな電車のことが解る
 ょうになり、正確にバス、電車に乗れるようになりました。
○ 視線が合うようになり、落ち着きがでてきました。  (他19名)
○ 英語、国語が得意になり、いじめを受けながら不登校にもならず、忍
 耐強い子供に成長し、詩をつくることから気持ちのやさしい子になりま
 した。
○ かめ、すっぼん等を古代文字で正確に書けるようになった。
○ 出来ることがどんどん増えてさた。数を数える、買物が出来る。
○ 会話が出来るようになり、YES,NOがはっさり言えるようになり
 ました。
○ 漢字で名前が書け、時間、月日、曜日がわかるようになった。
○ 自分を抑えて嫌なことでも、頑張る力がついたと思います。(他4名)
○ 施設から週一回両親と一緒にモンテに行くことで、気持ちが落ち着き、
 生き甲斐になっていました。
○ 扶持が出来るようになった。ひらがなが全部読め、数字が解るように
 なってきました。
○ ローラースケートが趣味の一ツになっています。
○ 自分の存在を認めてもらうことで、何事にも気力と根気がでてきまし
 た。                         (他5名)
○ ピアノに関心を示し、弾いたり、たたいたりして音楽が好きになって
 きました。                       (他1名)
○ 絵本が好きになり、ピアノに合わせて歌うようになった。(他2名)
○ 漢字や、数字が記憶出来るようになってきた。針を使って根気よく興
 味をもって縫うことが出来るようになりました。
○ 地図に関心をもって親が◯◯というと捜し出すことが出来るようにな
 り、それに伴って文字が解るようになりました。
○ 学校での授業が落ち着いて受けれるようになりました。 (他2名)
○ 集中力がでて、落ち着きいろんな事に挑戦する意欲が出てさている。
 周囲の人からばかにされたり、うとましがられると、自分をおしこめて
 その場をしのぐ、生きていく知恵が出来てきています。
○ 無回答                           2名
※ このアンケートの回答は、一人で複数の成果があり実際の人数とは、
 一致しませんことをお断わりいたします。

(7)中村先生に対しての現在の思いや感想をご自由にお書き下さい。
○ たくさんのことを教えて頂きまして、感謝の気持ちでいっぱいです。
 子供の躾方、叱りかた、ほめかた、勉強への取り組み方など、先生に教
 えて頂いた事が基本になって、私達親子に身についてきていると思いま
 す。中村先生の「頑張りなさいよ。」を励みに頑張ります。先生有難うご
 ざいました。ご冥福を心からお祈り申し上げます。
○ 先生は子供が楽しく勉強できるように、教材を考えてくださり、熱心
 に指導してくださる姿勢は、挫折しそうになる私に「親が頑張らずして
 どうする。」とやる気を起こさせてくださいました。
 子供も何故か、休むこともなく先生の所にいくのを楽しみにし、通っ
 た10年がとっても充実していて、そんなに過ぎたとは思えません。
 少しでも遅刻をすると「どうしたんや、心配してたんやで。」といってく
 ださったり、帰りには「気をつけて帰りや、よう頑張ったなァ。」とお菓
 子やジュースをくださった、先生のお顔が今も目に浮かびます。
○ 子供が肺炎で入院している時に、同室の人からモンテのことを聞いて
 紹介してもらいました。当時我が子はモンテでは、最年少で、自宅から
 も距離があり、続けられるか不安でした。しかし、先生の熱心なご指導
 で頑張ることができました。先生の体力の衰えを感じながら「ずっと元
 気でいて下さい」と心の中で念じながらの学習でした。
  これから入学する子を、ずっとご指導頂けるものと思っていた矢先の
 訃報でした。先生のお心を胸に、これからも親子で頑張っていきます。
○ 子供のことを可愛がってくださり、熱心に指導していただきました。
 悩むことが多く、相談した時など叱られることもありましたが、励まさ
 れ元気になれました。
○ 当時の事を思い出して今は、手さぐりでやっております。難しい言葉
 の理解や計算はやはり延びが遅いが、できることをのばしてやろうと思
 う。何よりも、親の私がモンテで教育されたのだと思う。
 “天は自らを助くる者を助く,,という言葉を肝にめいじている。「頭が
 悪いのがいけないのではな、怠けることがいけない。」と先生がいつ
 もおっしゃていました。障害があると卑屈になったり、内にこもりがち
 になるが、先生の強い愛情のお蔭で、こんなに立派になりました。ご恩
 は忘れません。
○ 先生には、どんなことでも相談でき、また、良きご指導をいたださま
 した。帰りにはいつも先に道路まで出て、安全を確認して車を見送って
 くださいました。
○ 思い起すに、親にとっても子供にとっても、大きなカとなる心のより
 どころでした。先生の教えを心の糧として、親子でつよく心を通わせて
 頑張っていかねばと思っています。
○ あまりにも突然のことだったので、頭では亡くなったことを理解して
 も、ピンとこないというのが本音です。あの家で座椅子にすわっておら
 れるような気がします。
○ 親以上に子供のことを考えて、その子にあった教材を作ってくださり、
 “こんな教え方をしたらいいのか“と勉強になりました。私も弾いたこ
 とのないピアノを、先生に指導していただき曲が弾けるようになり、喜
 びと自信になりました。もっともっと沢山のことを教わりたかったので
 すが、残念です。障害を持った他のお子さんの成長をみて、どんなに障
 害があっても親が一緒に勉強し、頑張っていけば、出来ないと思うこと
 も出来てくることを感じました。
○ 私達夫婦にとって一生忘れる事の出来ない先生です。障害を宣告され
 て、まだ受容できずにいた時「お母チヤンが一番の先生や!」といつも
 言ってくださいました。他の人の言葉に落ち込んでいた私に「自分の体
 にあわせて服を選ぶのか、服に合わせて体を変えるのか?。」と言われま
 した。「子供の成長を一つのものさしでしか計ろうとしない人間の言葉
 にいちいち落ち込むな、自分の子どもの成長をお母ちゃんがわかっとっ
 たらええねん。」とおっしゃいました。モンテに行くたびに「また、バカ
 なこと考えて落ち込んでへんか?」とよく気に掛けてくださいました。
○ 親子で悩んでいるときの心の支えでした。心の中のお父さんがいなく
 なったようで、とても淋しい思いです。
○ 親が無理だと思っていることを、どんどんさせてくださり、こんなこ
 ともできるのか?と、子供への目が変わりました。いつも子供に優しか
 った先生を思い出すと、がんばらなければと思います。
○ 入学前の不安でいっぱいだったころ、先生にお会いでき随分励みにな
 りました。学校のいろんな事や、指導について教えて頂き勉強になりま
 した。親のほうが苦痛になったこともありましたが、子供は嫌がらずに
 モンテに通い、先生に「J君、立派になった。」と言われた時は喜びを感
 じたものです。今は感謝の気持ちで一杯です。もっと立派になったJを
 見てほしかったです。
○ 親の方が頭が下がるほど、子供のことを心配してくださり有り難く思
 っています。睡眠時間を削ってまで頑張ってくださった先生、ゆっくり
 やすんでください。
○ 最初見学に行った時には「エーツできるかなあ−」と思いました。で
 も、しとかないと後悔すると続けました。先生の信念に基づいた教育で
 人間らしくなった息子です。天国では、セカセカせずにゆっくりとして
 ください、長い間ありがとうございました。
○ 勉強はもちろん、生さ方を学びました。人にばかり頼らず自分の力で
 前を向いて歩んで行く姿勢を学び、親も子も強くなったと思います。私
 が今までお会いした中で一番信頼できる先生でした。
○ 私達親子が頑張ってこれたのは、中村先生に出会えたからです。先生
 の教えがあったからすべてに前向きに対処でき、勇気と自信が湧いてき
 て、子供を理解し苦労な子育ても楽しくできました。私には神様のよう
 な方で、めぐり逢えたことが宝です。子供が縁で出会え感謝しています。
 これからも先生に子供の成長を「よう頑張ったなあ」と喜んでもらえる
 よう努力していきます。
○ モンテの指導で子供が、大きく変わり、これからもずっと続けたかっ
 たのでとても残念です。
○ 子供が興味をもって取り組む教材をいろいろ考えて、変えていかれま
 した。また、こちらが教材に対して提案をすると、一度も拒まれず受け
 入れていただいた。庭先に赤い実をつける木があったので、“先生こ
 の実は毒ですよ’’と申すと「山葡萄かと思っていた、子供が食べたら大
 変だ。」と言って、すぐに処分されました。
○ 初めて先生にお会いした時「70才になったら、モンテはやめる、それ
 までは教えるから頑張れ。」と言われたのが現実となって去っていってし
 まいました。私の悩みに対して、すぐ戻ってくる言葉にいつも勇気づけ
 られ、帰宅すると、もう一頑張りしょうかという気になりました。今考
 えると「すぐできるようになる。」という先生の言葉は、心配性の私を安
 心させ、希望をもって子供に対応でさるようにとの配慮だったのだろう
 と思います。
○ 親身にご指導頂き感謝しております。まだまだ続けてもらえると思っ
 ていましたのに残念です。ご指導頂いた2年半を貴重なものとして、親
 子で頑張っていきます。
○ 時々“ふっと”中村先生のお顔を思い出します。「Mちゃんにはこん
 な教材がいいでしょう。」と、いろいろ考えてくださって…子供に村して
 優しくもあり、厳しくもあり今思うと、将来につなげるために行動で親
 に教えて下さっていたのだと思います。「最良の先生はお母さんなんで
 すよ。」と叱咤激励され、親としての姿勢も学んだように思います。
○ 障害児に対して一生かけて情熱をかたむけて下さって感謝の気持ちで
 一杯です。ここ迄される先生は出てこないと思うと淋しいです。
○ 先生がよく「F君と一緒に卒業しよう、普通の高校に行けるようそれ
 まで頑張ろうな。」と言って下さったのに本当に残念です。これから子供
 は難しくなっていく、先生がおられたら“心配せんでええ、子供がどん
 どん大人になっていってるんやから”といいながらアドバイスしていた
 だけるのに、今はどうしたらいいのか、解らないまま日を送っています。
○ 先生に巡り合わせていただいたことを、感謝しております。今も時々
 先生のお言葉を思い出しては、足守の方向に手を合わせています。
○ モンテ微塾に通ったお陰で、勉強してきたノートが何冊もたまりまし
 た。ビーズで作った子供の作品は今も、壁掛けとして飾っています。先
 生と一緒に写した写真を見るたびに、一生懸命指導してくださっていた
 姿が目に浮かびます。
○ 子供の障害がわかり、いろいろ相談に行きましたが、納得できる具体
 策が聞けず不安だった時、先生の暖かい励ましに私自身精神的に落ち着
 け、この子と一生付き合って行こうと思えるようになりました。モンテ
 での勉強が終わり、車に乗るといつも「気をつけて帰りや。」と、手を振
 つて見送って下さった姿を、今でもはっきり覚えています。
○ 中村先生がよく言われていた「親亡さあと、障害児が自立できるよう
 に。」の言葉が、子供が大きくなるにつれ実感しております。中村先生の
 ような指導は受けれなくても、一カ月に一度位集まって話し合える親の
 会ができたらいいなぁーと思っています。
○ 突然の事だったので、ショックでした。私達親子のことを親身になっ
 てご指導下さり、本当に感謝しております。今後も忘れる事無く親子共
 頑張っていきます。
○ もっと子供が小さい時から行っていたらよかったと思います。家庭の
 事情で半年位お休みしている間に、亡くなって心残りです。親は先生に
 叱られてばかりでしたが、子供は誉められることが多く、親の方を指導
 されていたのだと、今は思えます。
○ ずっと感謝の気持ちで一杯です。いつも先生の言われていたことを思
 い出し、子供がだらけた時には「中村先生がお空から見ているよ。」と言
 っています。子供は今もモンテに行きたがります。そんなとき“ああ、
 先生が生きていてくれたら”と心の中で思います。子供が大きくなった
 ら文集を見せて、“中村先生のおかげで、今のあなたがあるのよ。”と、
 話したいと思っています。
○ 当時はまだ、やってる教材が難しく理解出来なかったようですが、小
 学校6年の現在は解ることが多くなってきたと思います。先生はよく顔
 の半分が人で、半分が猛獣の物を見せてくださいましたが、最近その意
 味が解るようになりました。パニックもほとんどなく、自分から考えて
 言葉を使って要求しようとする気持ちが育って、少しづつほんとうの人
 間に近付いてきていることを感じます。
○ ぼくは、中学三年生のときから、高校三年生の11月のおわりまでモン
 テへ通っていました。それとそのつぎの日にぼくがモンテに通うつもり
 で用意してたんだけど、モンテの先生が急に亡くなったのでびっくりし
 ました。それと4年間ぐらい世話をしてくださったのでだいたいよかっ
 たです。(塾生さんの原文です。無事農業高枚を卒業し、自動車の免許
 を取得して車を買い、ボツポツ運転しておられるそうです。)
○ モンテに行きだしたのは、開塾5年目位でまだお若くてお元気でした。
 子供は勿論ですが、家族全員のことまで気を配られて、健康面には特に
 気にしてくださっていたのに‥・。言葉を話そうとしないので、軽く扱わ
 れる子供ですが、先生だけは本人の能力を一番に認めて、よく誉めてく
 ださり“すごいなあー”と思いました。話をしなくても人を見抜くこと
 ができる。今そんな人はいません。
○ 先の見えない状況の、一番しんどい時期にお世話になり、ただがむし
 ゃらにやってきたような気がします。先生の人柄の良さや、モンテのや
 り方が解りかけてきて、先が見えだしこれから、学校の事など真剣に考
 え、相談にのってもらいたいと思っていた矢先のことで、本当にショッ
 クでした。先生が亡くなられて、いろいろな事が見えてきて、本当にも
 っともっと長生きしてほしかったと、今でも思っています。
○ 通塾の回数は、余り多くはありませんが、親も子も先生の誠意には、
 感動しました。一杯のスケジュールの中に入れて頂き、より一層睡眠時
 間を短くさせたようで申し訳なく思っております。でも、先生にお会い
 出来たことは私達親子にとっては、とっても嬉しく思いました。大変残
 念で悲しいことですが、先生の言葉を思い出し頑張っていきます。
○ 暗闇の中での一筋の光でした。鎚る思いで先生の指導をうけ、夢中で
 教えについていきました。先生は亡くなられましたが、私達親子が先生
 から受けた教えは、体の中にいきています。
○ 心残りでとても残念に思っています。先生の子供に対する愛情は言葉
 では言い尽せなく、頭の下がる思いです。子供が卒業して二年間、ずっ
 とご無沙汰でしたのでお亡くなりになられてみて、先生のお心に添えな
 かったことに申し訳ない気持ちで一杯です。
○ 先生が亡くなった知らせを聞いたときは、すごくショックでした。
 涙が出てきて何日も泣いてばかりしていました。モンテを卒業してから
 しばらく行っていなかったのですが、亡くなってはじめて先生の存在が
 いかに、大きかったか気付きました。先生には本当に感謝しています。
 先生に出会えて幸せでした。中村先生との思い出は、これからも大切に
 していきたいと思っております。
○ 本当に感謝しております。もっと続けて通いたかったし、指導も受け
 たい思いです。進路の事等とても悩みます。
○ 中村先生にお会いできて、私連親子は暗闇の中で、一つの光を見付け
 たような気持ちでした。「お母さん、助けてあげるから一緒に頑張って
 いこう。」と言われたときの事は今でも忘れられません。先生に教えてい
 ただいた事はたくさん残っておりますが、もっともっと教えていただき
 たかったと、とっても残念です。そして、今のこの子をみていただきた
 かったです。小学生になって、勉強も、運動会もがんばり、本読みコン
 クールで最優秀賞をもらいました。ご報告したいことが沢山あります。
 先生は天国で“よかったなあー”と喜んでくださってるでしょうか?。
○ 出来ることならもっと早くお会いして、もっと長く教えていただきた
 かったです。子供の口から時々、今だにモンテの先生のことが出てきま
 す。先生に教えて頂いたことを、子供の日々の生活に生かしていきたい
 と、思っております。
○ なかなか先生の指導が理解出来ず、叱られた事が懐かしく思いだされ
 ます。出来の悪い母親で今は、申し訳なかったと思っています。最後迄
 子どものことを心配されて、最後の勉強となったとき「まだ死にたくな
 い、子ども達の行く場所がなくなる。」と言われた言葉が印象的でした。
 今でも、子ども達の幸せを願っていらっしゃると思います。
○ 先生が亡くなって、改めて先生のすごさが身にしみました。通塾して
 3年間が過ぎやっとなれて、学習が軌道にのった頃でした。残念でしか
 たありません。子供も、モンテ先生といって、いい顔で先生を呼んでい
 ました。親の気持ちを常にプラス思考に導いて、指導し、相談にも丁寧
 に答えてくださいました。無理をされず、もう少し元気でいてほしかっ
 たです。先生から受けたご恩は、私達親子の宝物として、一生大切にし
 たいと思います。先生、本当にありがとうございました。
○ 私達、年寄の保護者も大切に教えて下さり心の優しい人でした。子ど
 もの入学番号は16番だったと思います。10年間教えて傾き感謝しており
 ます。
○ 子供のことを一番に考えて下さり、敦の悩みにも相談にのってくださ
 いました。刺し子を通じて一つのものが完成して、嬉しさを感じていま
 す。中村先生に出会えて本当によかったと思います。
○ 長い間良くして頂き感謝しています。子供の性格を考慮してくださり
 子供と合う子供さんと一緒に勉強させて頂き、落ち着いて指導を受け喜
 こんでいました。絵カードが好きで今も、してほしいと要求してきます。
 いろいろありがとうございました。
○ 中村先生には、生前お世話になり、有り難く思っております。異郷の
 地で私財を投じて、障害を持った子(人)のために寝食を忘れて尽くす
 という事は、並大抵ではないと思います。そのパワーと行動力には、た
 だただ頭が下がります。感謝の気持ちで一杯です。今後は、モンテで学
 んだ事を思い出して、気持ちも新たに頑張っていきます。
◯「絶対伸びます。」と、強い口調で言われたのを今でも、よく覚えてい
 ます。子供に対してあんなにも深く、強い愛情を示してくださったのは
 中村先生が初めてでした。あきらめず、この子の可能性を信じて一歩ず
 つ頑張っていこうと決意を新たにしています。
◯ 8年間、自宅から自転車で通っていた、何故なのか不思議でしたが、
 今になって解るのは、先生が子供を認めて下さったということ、私達親
 子の中にいつも、他の人と違うというコンプレックスがありましたが、
 個性が強いだけだと言い続けて下さり、いつの間にか個性は良いことだ
 と本人に自信がついたようです。学枚では、ずっと認められないことを
 モンテで認めてもらえ、嬉しかったのだと思います。現在は、授産施設
 に通所していますが、いつかは自立したいと言っております。
○ 困ったり、悩んでいる時、適切で暖かいご指導を親身になってして頂
 き、感謝の気持ちで一杯です。厳しい時もあり、暖かい時もある接し方
 で、二年半が長いようで短かい、終わりになってしまいました。私達に
 は忘れる事の出来ない先生です。ご指導傾き有難うございました。
○ 短時間の継続が大きな力になることを、身をもって教えて頂きました。
 親の狭い考え方を大きく包んで下さっていたことを、亡くなられて新め
 て、感じています。指導者の自信には、どんな子供も従う力を持ってい
 ると思います。(勿論子供に対する思いやりがあってこそですが)親の
 体調が悪く、連れていくだけのこともありましたが、それでも大丈夫か
 と、心配して下さり親の不安を解消してくれました。
○ 中村先生には障害の子だけでなく、途中からは弟、妹も英語、ピアノ
 等教えて頂きました。家庭の仕事の都合で6年程で止めてしまいました。
 一度皆で先生にお会いし、現在の様子など聞いてもらいたいと思ってい
 ましたが、実現出来ず申し訳なく思っております。先生から頂いた心暖
 かいご指導は、私達親子、モンテに通われた方の心の中にいつまでも、
 生き続けて行くことと思っています。
○ 想いを的確な言葉で表現できません。すみません。
◯ 子どもが少しづつ成長することを、何よりの喜びとして、小柄な体で
 分刻みの指導を颯爽として下さった姿が目にやきついております。先生
 の熱意に親もつられて、しんどいなぁ〜、今日は休みたいなぁ〜、と思
 っても、何時の間にか宿題を一生懸命子どもと頑張っていました。先生
 には、そうさせる魅力がおありで、その結果が子どもの発達につながっ
 ていったのだと思います。先生、ご恩は決して忘れません。
○ 親子でチンドン屋をしていますが、先生に相談した時はとっても喜ん
 で下さいました。或る日チンドンの衣装でモンテに行き、周囲を何回か
 チンドン、チンドンと鳴らして回りました。先生も出てきて下さって、
 「Tが生さ生きして太鼓をたたいている、よかった、よかった。」と誉め
 てくださり、その言葉を励みに今も、頑張っております。
○ 最初は、子供がよく泣き、無理矢理手を持ってさせる状態なのと、先
 生も怖く、びくびくしながら通っていましたが、続けて行くうちに子供
 が喜んでする物が増えていき、あまり困る事もなくなり、先生の考え方
 も理解でさるようになってきたところだったので、本当に残念でした。
 言葉より、手が動く事の方が大事なんだということを教えてもらって、
 良かったと思います。
○ 先生は、時に厳しく、時に優しく励まして下さり、子の支え、親の支
 えでした。親子で頑張り通い続けた8年間が、子供と親を精神的にたく
 ましくしてくれたと思え、いじめも小1から中1までありましたが、そ
 れでも、不登校にもならず、中3の今は合唱部に所属して中学生活をェ
 ンジョイしているようです。自閉的な面も徐々になくなり、親から見て
 素敵な女の子になってくれています。
○ モンテの先生に出会う前は、多動で視線も合わず大変な子でした。そ
 の我が子も10年間の指導のお陰で、色々ありましたが社会に巣立ち、4
 年間一般企業で頑張っております。これも、先生が職能訓練をしてくだ
 さったからだと、感謝しております。現在も壁にぶつかった時等、先生
 の教えを思い出しながら、親子共々頑張っています。長い間ありがとう
 ございました。これからも見守って下さい。
○ 本人の成長は三歩進んで、二歩退くというように微々たるものですが
 継続する事の難しさと、大切さを親が学びました。去年より今年、今年
 より来年のスタンスで成長を見る目も養われました。親も成長させても
 らえ、先生に感謝いたしております。
○ 躾のしにくい、非常に育てづらい子供を養育する上で先生は誰よりも
 信頼出来るよき、アドバイザーであり続けて下さいました。子供の状態
 が悪くて、心が挫けてしまいそうな時いつも、温かい励ましの言葉をか
 け、支えて下さいました。先生の教育法でEは基礎学力をしっかり身に
 付ける事が出来ました。中村先生にはまだまだ長生きして項さ、障害を
 もつ子供たちのよさ指導者であって欲しかったのにと思うと、今更のよ
 うに残念に思われます。
○ いつも子供を誉めて下さり、親もその時改めて我が子のすばらしさを
 知り、落ち込みがちな親に、子供に対する自信と誇りを持たせて下さい
 ました。大変な時には“この子を道連れに死のう、言葉の話せない子だ
 け死なせるのは、あの世で困るにちがいない、私と一緒だったらこの子
 も死んでくれるだろう。”と何度も思っていましたが、先生の笑顔を見る
 度、励まして下さる度に、早まらなくて良かったと思いました。お陰様
 で、今は安定し、幸せな日々を過ごしております。先生ありがとうござ
 いました。いつ迄も天国から見守って下さい。
○ 全身全霊で私達の子供を指導して下さった中村先生!「岡山の地に救
 世主現れる」と感動しました。先生のお陰で親子は、生きる指針を与え
 られ希望を持って育てることが出来ました。当時のノートを見るたびに
 先生ご自身が開発された教材で、親子共、頑張ってきた跡が解ります。
 いつ迄も人切に残しておさたいと思います。中村先生に感謝しつつ、ご
冥福をお祈り申し上けます。


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