さいごに
(1)障害児教育の達人故中村佐喜雄先生の生涯
上嶋光春
1)おひたち
昭和2年3月28日生まれ。 奈良市出身。
<教職暦>
昭和23年〜31年 三郷小学校
昭和32年〜51年 斑鳩小学校 (昭和37年から障害児学級担任)
昭和52年〜61年 平群東小学校 (昭和62年3月退職)
三郷小学校に9年間、斑鳩小学校に20年間、平群東小学校に10年間勤務された。
2)三郷小学校 昭和23年〜31年
昭和23年に三郷小学校に勤務。この時から、鼓笛隊の指導に情熱をかたむけられる。 先生は若い時に結核で入院されたと聞いている。そのために、結婚されずずっと独身をとうされたとのことである。また、マスクをいつもつけて指導されていたのも、そのこともあって配慮さあれた結果であったと思われる。
3)斑鳩小学校時代 昭和32年〜51年(昭和37年から障害児学級担任)
昭和32年に三郷小学校より法隆寺の近くの斑鳩小学校に転勤。ここでも鼓笛隊の指導に情熱をかたむけられる。
昭和37年、斑鳩小学校の初代特殊学級の担任になる。これは、県の特殊学級設置5カ年計画に基づく。当時の県下の障害児学級数は25学級(小学校19、中学校6)であった。障害児学級の担任を持たれる動機として、先生の昔の師匠といっておられた昭和18年から法隆寺で堤塾をひらいたいた堤勝彦氏の影響が考えられる。S57.12.5 1982の新聞記事より この当時の様子は、「やあコヒー牛乳」という先生の文章をみると伺える。ここには、障害児教育の原点ともいえる子どもを理解するとはどういうことなのか、ということを先生自身の体験の中で語られている貴重な文である。その当時斑鳩小学校の2年生だった松田先生(三郷北小学校教諭)が、その現場にいあわせたとのことである。この当時、法隆寺の棟梁であった西岡常一氏との交流もあったと聞いている。先生の造詣の深さを物語るエピソードである。
昭和48年、斑鳩小学校で障害児学級をもたれて、12年目。先生が46才の時、障害児教育に対する取り組みが評価されて、奈良県教育委員会の教育選奨を受賞。受賞者は校長や教育委員などを長年歴任された人ばかりの中にあって、障害児教育の現職の教諭が受賞するというのは、画期的なことであり、当時の先生の活躍ぶりが伺われる。この受賞者の中に西岡常一氏の弟さんがいることから、当時交流のあったのは、この方かもしれない。
4)平群東小学校 昭和52年〜61年
昭和52年、20年間勤められた斑鳩小学校から、平群東小学校に転勤される。ここでの先生の実践は、学研の「実践障害児教育」に載っているように、自閉的な子の指導にローラースケートを使った実践で画期的な成果をおさめられた。当時、県の障害児教育の指導委員としても活躍され、自分の持っている障害児学級の生徒さんを、一緒につれて各校を訪問して、その場で具体的にどう指導するか実際にみせられたと聞いている。また、当時同和教育から原学級保障をとなえる障害児教育のやり方の対立があり、それにたいしてかなり論争を展開された聞いている。先生は、一貫して両学級保障を唱えられていた。子どもが変わらなければなにもならない。こどもは、必ずのびる。ということを力説されていた。そして、いつも、原学級保障を論破されていた。このころ、の実践のひとつに「煎茶マナー」の実践がある。当時の先生の教材研究には目をみはるものがある。
音楽療法については、早くから実践されていて、奈良県の最初の音楽療法を実践されたのは先生ではないかと思う。また、モールス信号を使った聴能訓練や、手動式計算機を使った実践など、このころ先生が開発されたユニークな指導法は後のモンテ微塾の教育に引き継がれていく。
5)退職 岡山モンテ微塾 昭和62年〜平成9年
昭和62年、退職と同時に、私財を投じて新天地岡山で「モンテ微塾なかよしホーム」を開設される。なぜ、長年住み慣れた奈良の地を離れて、岡山にいかれたかは、奈良には対立する人が多くてやりにくいので、誰も知らない新天地岡山を選ばれたと聞いている。この新天地、岡山の足守の農家を購入され、障害児のための私塾をひらかれた。はじめは、関塾という普通の学習塾を経営されようともされた聞いているが、納屋を改造して音楽療法をするためのピアノ室や宿泊できる部屋をつくられた。この当時の様子はテレビでも紹介され、広く岡山や広島やこの奈良からも生徒が集まったようである。私が、初めて中村先生を拝見したのもこのテレビの録画のビデオだった。奈良県の障害児学級の教育の先駆者の西村幸治先生より中村先生のモンテ微塾のことを紹介していただいた。中村先生が斑鳩小学校で初めて担任をされたときに相談にのっておられたのが、奈良県教育委員会の指導主事をされていた西村先生だった。
平成6年1994年に初めて岡山のモンテ微塾を見学研修させていただいた。その時の様子は以下のとおり。先生の人柄について
先生を一言で表すとすれば、「懐の深さ」だと思う。「宮本武蔵にでてくる沢庵和尚のように、来る人をこばまず、さる人を追わず。」これは、先生が亡くなられた、通夜のことである。通夜が終わって吉元さんという青年に、車で岡山駅まで送っていただいた。そのとき聞いた話だ。私もモンテ微塾がまるで自分の故郷のような思いで毎年夏休みに1泊で研修にいかせていただいた。そのような先生の人柄にふれて、心が洗われる思いで帰ってきた。
6)先生がめざされたこと
それは、「障害児の幸せを願って」毎日、一日も休まれず授業をされたことのなかにあらわれている。モンテの教育は、母親がわが子のために、本当に愛情をもって育てることの中にあったのではないかと思う。先生は、身をもってそのことを教えてくださっていたのだと思う。障害児教育の達人、中村佐喜雄の生涯は、われわれ障害児教育に携わるものにとって、学習することの大切さ、教育の偉大さをあらためて示しておられると思う。子どもが伸びなければ、いくら授業がうまくても、教師がりっぱでもなにもならない。一人ひとりが伸びる。そう言う確信をもって取り組むことの大切さを、教えてくださっているように思う。
(2)中村佐喜雄先生年譜
1927(昭2) 3.28生 ・奈良市で生まれる
1948(昭23)(21才) ・三郷小学校に勤務
1957(昭32)(30才) ・斑鳩小学校へ 転勤 ・大西さんの写真
1962(昭37)(35才) ・斑鳩小学校で初めて障害児学級担任になる。
1964(昭39) ・やあコーヒー牛乳・松田先生
1971(昭46) ・小林さんの鼓笛隊
1972(昭47) ・橋本先生の組合エピソード
1973(昭48)(46才) ・奈良県教育選奨受賞
1977(昭52)(50才) ・平群東小学校へ 転勤
1979(昭54)(52才) ・百年記念誌「障害児(者)の真の幸せを」
1982(昭57)(55才) ・堤勝彦先生の逝去を悼む
1983(昭58)(56才) ・実践障害児教育「ローラースケート学習」
1987(昭62)(60才) ・3.31退職 ・煎茶マナー ・障害児教育センターだより
・7月 モンテ微塾開設 ・三陽放送テレビ
1993(平 5)(66才) ・東先生モンテ訪問
1997(平 9)(70才) ・12.1 モンテ微塾にて 心不全のため死去
1999(平11) ・岡山の中村先生追悼集「モンテ微塾に学んで」発行