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 奈良での中村先生の思い出より

   (1)燃える若き日の中村先 生             大西 聖一
   (2)中村先生の思い出               松田 博美
   (3)中村先生 追悼文                 小林 俊文
   (4)中村佐喜雄先生の思い出     平群南小学校 橋本 洋一
   (5)中村先生との出会い              井上 美江子
   (6)中村佐喜雄先生を偲んで            東   宏美
   (7)先生のご遺業を偲ぶ              中澤 和彦
   (8)中村先生に出会い学んだこと          上嶋 光春



(1)燃える若き日の中村先生
                           大西聖一
1. 出会い

君、こんなに遅く学校でクラブでもして来たんか、何時もこんな時間に帰るんか、何のクラブや、1年やったら今年この斑鳩小学校を出たんか。家はどこや近くか、親は何をしてるんや、兄弟多いんか、次男やったら気楽にいけるんやないか。先生は、ここの小学校に来た中村やけど音楽やってんねん、友達になろう、まあ教室に入れや、この間まで三郷小学校にいたや、三郷では鼓笛隊を作ったんやけど、ここの学校ないから作ろうと思っっているんや。君は音楽好きか、何か出来る楽器があるんか、嫌なら聞くだけでも情操教育にいいよ。将来何かしたいと言う希望を持っているんか。先生はな、将来子供の教育、中でも福祉や障害児教育に力を尽くしたいと思っているんや、そしたら退職した曉には、福祉国家と言われるスェーデンに永住し、姉さんらと一緒に暮らしたいと考えているんや、君も一緒に行こうよ。

2. 下宿

 冬の単車通勤は、寒いしエンジンの掛りも悪くなる。しかし、乗用車に比べて小回り利くしガソリン代も安い。斑鳩にいい下宿があれば近くで便利がいいんやけど、まあ贅沢は言われん。下宿は6畳1間で狭いけど、ちゃんと新聞も入るし家賃も安いし単車も置ける。下宿の叔母ちゃんも叔父さんも人がいいからよく野菜や米を貰うんや、その代わり時々子供の勉強を見てるんや。君とこ鶏飼ってると言ってたが、子供の理科の実験に必要なんだが若鳥一匹欲しいって親に言ってくれよ、親がいいと言うなら来週持って来てくれるか。あの鶏ええ実験材料やった、子供が興味深く真剣に見ていた。実験材料はちゃんと内蔵と肉に別けて料理し今日は下宿で鍋物でもしょう。野菜持って来てくれたんか、お母さんよく気がつくな、よろしく言っといてや、今日は材料が揃っているから王寺に寄らず学校から下宿に直行やな、長年鍛えた料理の腕前を見せてやろう、きっと美味しいぞ。

3. 音楽

 言ってた鼓笛隊のこと、PTAも了解し来春作ることになったので、教材や選考準備に追われているが、発隊式までには2〜3曲演奏できるよう頑張るわ。先生自身もどんな楽器でも使え教えられるようこれから毎日勉強や、そのため早速ギターを買ったんや。ピアノやギターにはそれぞれの音色があるが、音と言うものは、雑音のある昼より深夜静かに聴くのが本当の音だよ、防音装置はないが深夜教室にくれば一番いいよ、そうだな午前〇時前後にくれば本当のピアノやギターの音楽を聴かせたるわ。教室は広いし、人は居無いしどんなに大きな音を出しても迷惑にならないからな、この曲が好きなんや、あら午前3時回ったな、親に言うて来たんか、これで終わりや。

4. 教育

 君も見にきてくれたように努力の甲斐があって鼓笛隊の運営も軌道に乗りかなりの評価も得て来たので次の先生に引き継ごうと思っているんや、顧問と言う形で何時までも面倒は見るつもりでいる。その 代わりと言うたら変だけれど、先生は独身で自由も利くし又、育ってきた環境やその思いとともに情熱を一心に傾けこれまで同様努力を注げば必ず成ると思っているんや。これから講習や研修に勤め資格を取らなければならない可能性に挑戦するんや。

5. 追悼

 先生との出会いは、近道の校庭を横切る一瞬の帰宅途中でした。初めて合ったのに親しさを感じる、「オーイ・中村君」と呼んでくれとか、家庭の事を聴いたり、子供の私に自身の将来のことについて話すなどこの人本当に先生かなと思った。時の経過と共に先生の手助けや音楽を聴きに教室へ、又、進学や就職の相談で下宿に行き来して人生感などについて色々と教示を受けたが、石橋を叩いて渡ると言う諺があるように、何事も即断せず熟慮しつつ堅実で親身な指導を頂き感謝しています。教育とは、誰も天才ではないが自ら努力し子供の可能性を見付け出し、それを伸ばしてやることであるとの言葉は、真に聖職に捧げた中村先生の偽らざる信条で挑戦でもあったと今の私の心深く生き続けている。私の良き人生の指導者であった恩師中村佐喜雄先生のご冥福をお祈り申し上げます。

写真

 写真は、私(右端)が斑鳩中学校二年生(昭和三十四年)の時、
下宿先を訪問し、近所の子供と三郷小学校校庭で撮ったものです。
(平成10年12月10日)


(2)中村先生の思い出
                                 三郷北小学校   松田 博美

4分休符

 私と中村先生との出会いは、斑鳩小学校2年生の音楽の授業を担任の先生が休まれた時、代わりに教えてもらったのが最初の出会いです。今でも覚えているのは「4分休符をカモメが飛んでいるように書くのや」と言うところです。ほかのことは覚えていませんがこのことだけははっきりと覚えています。ころころ太った小さい先生だが面白い。これが第一印象でした。確か音楽の授業だったはずですが、おもしろいことばかり話されて、それだけで終わったような気がします。2年生の時は後にも先にもこの1時間だけっだと記憶しているのですが、この1時間の印象が強くて、先生とのつき合いが始まりました。これを機会に先生の教室によく遊びに行きました。

小鳥とアリナミン

 斑鳩小学校時代の先生の教室は、当時の木造校舎の西の端の障害児学級でした。そこに寝泊まりされることも多く、教室を自分の家のように使っておられました。小鳥がいっぱいいて、楽器がたくさん置いてありました。楽器もギターや金管楽器、ピアノと当時の私も含め子どもには珍しい物がたくさんありました。職員室から遠かったので古い電話機(戦前)をインターフォンに使っておられました。これがまた格好良かった。テープレコーダーもいつもセットしてあって何でも録音してもらえました。私たちには授業では勝手にさわれない物がこの教室では自由に使えました。ここで放課後ギター教室が開かれ、高校生のお兄ちゃんたちがたくさん来ていました。卒業生の集会所のようになっていました。ある日のこと小鳥が弱っていました。先生は水に溶いたアリナミンを餌に混ぜて与えていました。私は人間が飲む薬を与えているのにびっくりしました。先生はすぐに元気になるとおっしゃってました。薬に関してはこのころから研究されていました。

コーヒー牛乳

 ある日、教室を訪ねると、コップに入った茶色の水を差し出されました。「これ、水たまりの水や、おいしいで。」教室の自閉症の子が運動場の水たまりの水をハンカチに浸して飲むそうです。先生も一緒になって飲んだようです。コーヒー牛乳の味がするそうです。何でも子どもと体験される先生でした。

オートバイ
 
 先生はオートバイを愛用されてました。よく後ろの乗せてもらって銭湯に行きました。バイクの免許が取れる年齢になった頃、「免許を取れ、ツーリング行こう」と言うことで乗り方を教えてもらいました。夜に先生の教室に集まってギターを練習している連中の、乗ってきているオートバイを借りて小学校の運動場で練習しました。おかげで一発で合格です。次はオートバイを買う作戦です。これも我が家に食事に来られた時タイミングを見計らって言ってもらい成功。と言うわけでツーリングに出かけることができました。ちなみに先生のオートバイは、ホンダカブ55ccでした。新車に乗り換えられてからは最後は私がもらい長らく乗っていました。

ピアノ

 私と障害者との出会いは先生を通してです。上記のようにどちらかというと学校外でのつき合いが多かったように思われがちですが、教室に行けばいつも障害者と一緒だし、先生から出る話は障害者の話が多かったです。でもそれは自然で空気のような物でした。平群へ転勤されてからは、小学校の教師を目指す私にピアノを教えて下さいました。これは結構きびしかったです。音楽に対する先生の姿勢でしょう。そういえば、斑鳩小での鼓笛隊の指導は厳しかった。
 思い出を書けばきりがありません。もう一度、大和路を先生とツーリングしたいです。


原稿




(3)中村先生追悼文             

       
                     小林 俊文

 私と中村先生との出会いは、私が奈良県の斑鳩小学校一年の時に鼓笛隊に入り、そこで顧問をしておられたのが中村先生で、今から27年も前のことです。
 それ以来、先生と父が1歳違いで“酒好き”という共通点から、家族ぐるみのお付き合いが始まりました。
 先生は当時から、一見すると“酒を主食に生きる変人”でしたが、何かのきっかけでその潔い生き方に触れ、私は先生の深い信者になってしまいました。
 私が小学生時代には、とにかく礼儀をきびしくしつけられまして、天国に行かれた今でも先生のことが怖いのですが、そのことが現在でも非常に役に立っています。ですから、岡山の方にお邪魔させていただいて先生にお会いすると、気が引き締まって初心に戻れるような気がしたものです。数多くの恩師の中で、社会人になってもお付き合いさせていただいているのは、中村先生と大学のゼミの先生だけですので、私にとっては非常に特別な存在の方でした。
 岡山の方に行かれてからは、あまり体がお強いほうではないのに、ホワイトボードの予定表が夜遅くまでびっしり埋まっているのに驚き、もう少しお体を大切になさればよいのにと思っていましたが、誰の言うことも聞かないのがまた、先生らしいなあとも思っていました。逆に、毎日多くの子供たちに会うことが先生の元気の源だったのかもしれません。
 先生と亡くなった父と母と私と、4人で近くの温泉に泊まってきじ鍋をつついた事も、そこで使い古しのオロナミンCのビンに入った漢方薬味の変な飲み物を、身体に良いからといって飲まされた事も、数少ない楽しい思い出になってしまいました。
 先生、天国でまた父と酒を酌み交わしながら、我々教え子を見守っていてください。
さようなら


(4)中村佐喜雄先生の思い出

                           平群南小学校  橋本洋一

  私たちは日々、人との出会いと別れを何となく繰り返している。その中で中村先生と私の出会いと別れは何か劇的であったと感じられてならず、ワープロのキーをたたく気になった。

 それは昭和47年の秋だったと思う。

 生駒教組執行委員会で中村先生のことが話題になった。斑鳩小学校の保護者が「中村先生は子どもに体罰を加えて困っている。何とかしてほしい。」と組合に訴えてきたというのである。
 執行委員会はすぐその保護者と分会に事実の確認をした。その結果は「どうも事実らしい。鼓笛隊の練習でムチを使って厳しく指導しているらしい。」とのことであった。
 分会と相談したところなかなかの理論家・実践家だという。一筋縄ではいかないだろうと言うことで執行部がとにかく中村先生から直接話を聞いて説得しようと言うことになった。

 その役を仰せつかったのが書記長と私だった。中村先生との出会いであった。

 どのように話をしたか覚えていないが先生はあっさりと事実を認められ体罰が間違っていることを認められたのである。

 そして「あんた等だけや、僕にそんなことを言うてきたのは。よう分かった。組合ちゅうのは上と喧嘩ばっかりするところや思うてたけど子どものこと考えてんねんな。」と妙に不思議がられたのが印象に深い。

 20代後半の私と年はずいぶん離れていたように思う。代議員会や集会で会う毎に生意気を言った若造に先生は「あの時よう言うてくれた。わしは感謝してんねんで」としつこいほどに繰り返された。

 組合活動に協力的になり、代議員会で答に窮すると助け船を出して下さったことが懐かしく思い出される。
 
 障害児教育にはとりわけ熱心だった。

 平群東小学校におけるM君と言う自閉症児に対する取り組みは側から見ていて目を見張るものがあった。音楽療法、自転車乗りと次から次に目新しい実践を積まれていた。聞くところによるとかなりハードなやり方で現場の先生からはかなりの批判があり、論争があったという。それがモンテッソーリの教育論に基づく実践だったと言うことは後になって聞いたことである。

今M君は立派に成長し、彼を理解してくれる会社の仲間に囲まれて元気に働いている。

 退職されてからのモンテ微塾・足守仲よしホームでの実践は先生からの便りで少しは知っているが多くの方が書いてくださるだろうから省略する。  

 平成9年のこと。長く会っていないし久しぶりに中村先生のところに行こうと話が決まったのは9月頃だったと思う。11月29日から一泊二日で行こうというのである。これが先生の死の前日になろうとは誰知る由もなかった。

 計画には平群町内の校長・教頭5人が加わった。先生に宿のお世話になるのは恐縮だし中国山地の温泉に前宿し、30日10時きっかりにホームを訪ねた。

 頭こそすっかり白くなっておられたが紺色のジャンパー姿まで昔のままの中村佐喜雄先生が待っていて下さった。
 日程説明を事細かに聞いた後、順次来所する保護者と児童に指導されるのを見学させていただいた。
 ピアノ、手動式計算機、モールス電信機、カード等を使った指導をそれは手際よく進められていた。

自閉の女児は先生のピアノをBGMに母の膝の上で絵物語に夢中になっていた。

 その後、別室では3人の子どもとその保護者が指導を受けていた。高等養護に通うという男の子は家で練習してきたというピアノ曲を無心に弾いていた。上手かった。別の子はモールスと計算機を保護者と共に動かし訓練を受けていた。

 70歳を越し、心臓を病んでいるとおっしゃる割にはその姿はかくしゃくとして若々しく感じたのは私だけだろうか。

 子どもは生き生きと学び、保護者は先生を信頼しきっている雰囲気が部屋中に満ちあふれていた。中村先生が理想とされた障害児教育実践の極点を私たちは垣間見させてもらったのであろう。同じ教育に精進する者として穏やかで心温まる至福の一時を過ごさせてもらった。羨ましかった。

 午前中の指導が終わった後、別室に案内された。「ちょっと時間をとる。今日の視察の感想や質問を出してくれ。すぐに答えられへんこともあるからここに質問状を用意した。ここへ書いといてくれ。」と言うのだ。

 そして話された。「よくここまで頑張ってきた。もう限度や。医者は手術をせえと言うが治る保障も無いというのによく言いよる。医者は信じられん。入院したらホームが止まってしまう。出来るところまでやるんや。ホームの運営と指導は文部省方針でやってきた。間違っていたとは思わん。原学級保障では子どもの力を十分伸ばせられん。おまえらもうちょっと勉強せい。」他にも色々言われたが私の記憶からはもう消えている。

 午後からの予定もぎっしり入っているとのことだったので身体をいとい無理のない活動をなさるよう伝えて12時半にホームを辞することになった。庭先で記念の写真を撮ってお別れした。

 先生が元気になさっていた指導のあれこれを話題にしながら帰りの車中は賑やかだった。

 訃報を伝える電話があったのはその翌日だった。まさかと耳を疑ったが私たちが最後の来訪者になってしまった。

 亡き人だからと言って美辞麗句で飾り立てるつもりはない。しかし中村先生は自分の信じるところに従ってその生涯を教育のために捧げられた方だと思う。40年近い現役時代を終えて退職すると悠々自適で余生を送る方が多い。その中で中村先生は子どものために、中でも障害を負う子どものために余生の全てを捧げられたと言うところがすばらしい。それも私財を投げ出して施設を整え、見知らぬ岡山の地で持てるエネルギーの全てを完全燃焼されたのである。それは人間と子どもに対する限りない愛情を持たれ人間の発達の可能性を信じてやまなかった思想性がなせる技ではなかろうか。欲を捨て全身全霊をなげうっておられた姿に先生の偉大さと人間のすばらしさを感じずにはいられない。

 お付き合いとは言えるものではなかったが先生に接しその生きぶりを見せていただくにつけ教えていただくことが多かった。障害児教育における実績はもとよりその生き方に私は多くのことを学ばせていただいた。市井の一教育者として生き、教育に埋もれ消えて行かれた中村佐喜雄先生の生き方に私は惜しみない拍手を送るものである。そしてお礼を申し述べご冥福をお祈りしたい。

 この度、中村先生の追悼文集をつくるとの手紙に接し思い出の一端を記した次第である。


(5)中村先生との出会い                                                              井上美江子

 中村先生との出会いは二十年程前の事でした。私の娘は(二十四才)知的障害者です。ぼんやりですが娘の保育園で障害児の療育教室に見学にこられ、話している中で主人の恩師とわかり親しくさせて頂いた様に思います。初めはお互いに心を開かなかったのですが、私が主人との出会、新婚旅行の話などすると「あんたの話は、漫才より面白い」と大笑いしてくださったのを思い出します。家にも段々、月に一、二度遊びに来てくださるようになり、娘に、五十音や時計の見方など教えて頂き、時計の方は覚えられなかったのですが、娘の頭に一番印象に残ったのか先生の事を、一時0分の先生と今でも呼んでいます。先生は、お米の代わりにお酒を飲んでおられ、(先生いわく、酒は米から出来ている、同じだと・・・)夕食は共にしてくださり、無理矢理に泊まって頂く事もあり、でも朝は気遣って六時頃に帰られ、帰ると言う時は、主人と、私が車の免許を取ってからは、娘と三人で送ったり、主人が先生の家に寝かせてから帰ってきたり、いろいろとエピソードもあり思い出します。かならず子供達にお小遣いをくださったり、気を使って下さる一面もありました。

 岡山に行く話も「こんな物件がある。どうや・・・」と言いながら、退職後の夢を語られていました。親しい方々にもお話しをされていたと思うのですが、段々家に持ってこられる書類も増え、本格的に計画をたてて、岡山行きとなりました。正直な処、先生のお体の調子や、「我が道を行く」(?)と言う個性のはっきりとされている処もあり、心配していたのですが、大人だったのですね。「安ずるより生むがやすし」でした。私も娘と共に岡山の方に様子をみに伺ったりしました。岡山の方々、周囲の方々に助けられ、身体の方はしんどいながら夢を実現出来たのではと、そのてん幸せな老後を過ごせたのではないかと思います。寂しがりやなところ、デリケートなところ、気がつくところ、思いやりのあるところ、変に格好をつけるところ、頑固なところ、生まじめ、いろいろ思い出されます。思えば、私が娘の育て方や思いを話したりすると、ニコニコしながら「そう、それでいい」と言ってくれ、反対さあれる事なかったなあーと、先生の亡くなられる四、五日前に電話で話しが出来た事、内容は、ずっとお中元、お歳暮を子供達用に届けてくださるので気遣いしない様にとか、先生も毎朝発作がおきているなど話され、「今授業中だから話しは手紙を書いてくれ」と私も「声ぐらい聴かせてもいいでしょ・・無理されないように・・」が最後の会話となりました。
 送らなくてもいいと言っても届けてくれるのでそれがなくお体の調子でも悪いのかなあと主人と心配していました。私も体調を崩していたので、そのままお正月を迎え、訃報を聞き、何もしてあげられず、ごめんなさいと心であやまり、御冥福をお祈り致しました。
奈良で五十日の法要に主人と一緒に御参りさせて頂きました。お骨箱の上に愛用のマスクも置かれてあり、岡山の皆様のお心遣い、良くしていただいた事、先生が感謝されていると思います。
 文章もさだまらず自分でも恥ずかしですが、思いのまま書きましたので御判読お願い致します。
 中村先生ありがとうございました。    合掌     1998.11.28

(6)『中村佐喜雄先生』を偲んで

                       香芝市教育委員会
                    学校教育課長  東 宏美

 なつかしい中村佐喜雄先生を何十年ぶりかで訪ねる喜びに胸をふくらませながら、岡山市下足守コウノベにあるモンテ微塾を私は香芝市障害児教育研究会の運営推進委員十四名と一緒に訪れたのは、平成五年八月四日(水)であった。

 中村佐喜雄先生との出会いは、確か昭和四十三年頃であった。奈良県障害児教育研究会の研修会の会場であった。先生は、当時情緒障害児を受け持っておられ、様々なユニークな実践を発表され、非常に印象深く、懸命な指導の姿に、大きな刺激を受けた。先生は、モンテッソーリの理論を現場において実践されておられた。ピアノも玄人はだの腕前で、音楽療法を通した自閉症児の指導は、抜群であった。昭和五十八年、私は、県の指導主事として、中村先生の授業を通した研究大会に参加した。先生は、当時、I君という重度の自閉症児を担任しておられたが、研究会での授業の展開の場においてすべての参加者の目が一斉に輝いたのは、先生の指の動き、声のかけ方の多様性に、ピアノのタッピングに誘発されるかのように、様々な指示に従い行動を行った時であった。常同行動が破られ、コミニュケーションの場が目的的に作られる様に驚嘆の渦が巻いていたのを今も耳に焼きついてはなれない。

 先生との交流は、東京での研修会、また、全国各所でも一緒であった。先生は、日頃健康には特に留意され、カロリー計算をしながら昼食は、ウィスキーの小壜のキャップ一杯であったのを覚えている。夏の暑い折にも、唾が相手にかからないようにマスクをされる気の遣いようであった。

 モンテ微塾を訪れた日も、うだるような暑い八月の太陽の下であった。周りの深い緑の中にモンテ微塾があった。中村先生と保護者の方々が出迎えて下さった。少し年を召された短い髭にマスクがあった。農家を購入したとの話であったが、実に大きな家であった。親切な保護者のボランティアの中に塾の息吹きを感じた。やはりピアノがあった。モールス信号機やモンテッソーリの教具など先生が考え出された様々な教具に目を見張ると同時に、先生のこの教育にかけられる情熱に再び感激した。授業参観、研究討議と熱心な研修会のひとときに香芝市障害児教育研究会の面々も驚きと感動とこの教育の深さと、何か一つの糸口を見つけたのを感じた。

『生涯一学徒』が先生の人生訓であった。

 足守に夕闇がせまる頃、モンテ微塾の子ども達、保護者の皆さんと中村先生に見送られ一行は先生に推奨された浮田温泉で一泊した。

 岡山の童話的な山々のたたずまいに、小川のせせらぎと人情の深さを感じながら夜の更けるのも忘れ語り合い、共に同じ教育に携わる者の温もりを感じたのであった。あとを追ってこられた中村先生も交えた夜の研修会も花盛りであった。『ふるさとのなまりなつかし・・・』きっと中村先生も、大和の地から来た同人の言葉を聞きたかったのだとその時思ったのは、私だけではなかったと思う。

 天国にいる中村佐喜雄先生に告げたい。『先生から学んだ多くの者が今、先生の教えを子ども達に伝えていきますよ。』『どうか。良く見ていて下さい。そして時には、こうするんだよ』とあの独特のしぐさで、そしてやさしい声で言って下さい。1998.11.26


モンテ微塾合同研修会要項
テーマ 親亡き後この子らの幸せは?
日時 平成5年8月4日(水)14:00〜16:00
会場 モンテ微塾
参加者 奈良県香芝市障害児教育研究会運営推進委員15名と本塾から若干名
日程  


内容  ○ 授業参観、小3組 中1組 高1組の親子によるスキンシップ学習
      及びそれらの音楽療法的養護・訓練の指導
   ○ 研究討議 授業内容及びテーマについて
        −その現状と未来−
   ○ 特別指導・助言  奈良県香芝市立下田小学校校長
                       東 宏美 氏
     指導助言者について  (前)障害児担当教員、県教委指導主事
               (現)公立学校長、奈良県障害児教育研究会長
     東先生は障害児教育における医学の分野にも造詣が深く、中村の奈良県
    在職中はもちろん現在もボランティア的にお世話になっている。



(7)先生のご遺業を偲ぶ

                       中澤 和彦

 紅葉の好季節が巡ってまいりました。この度は、モンテ微塾長、故中村佐喜雄先生の一年祭の御案内を戴き、有り難く感謝しております。この機会に、先生のご遺業を偲ぶのは混迷する教育界に一縷の光を取り戻すためにも、意義あることと存じます。

 先生がご存命中、度々塾を訪ねるようにお招きを受けていました。機会をみて是非参上し勉強させて頂こうと思っておりましたのに、今年の年賀状のお返事を先生のお姉様から戴き、先生がお亡くなりになったことを知ったような次第です。

 昭和六十二年の開塾の折にも、退職金を投げ出して障害児のため、余生に全力を尽くしたい、とお便りを戴いておりました。また、NHK岡山放送局が取材したときのVTRも送って戴き、その活躍ぶりにも感動しておりましたのに、こんなに早くお亡くなりになるとは、誠に残念、かつ、痛恨の極みです。

 モンテッソリー教育をマスターして、これを障害児の教育に適用するだけでなく、自ら開発した教材・教具と指導法を用いて、誠実かつ熱意溢れる療育、指導に専念される姿にペスタロッチを思い浮かべるのは私だけではないと思います。とりわけ、お母さんと一緒に指導することで、学校、家庭、地域社会の一体化が求められる昨今、これからの教育の在り方について貴重な示唆を与えて頂いたと思っています。

 先生の遺志を継いで、子ども達の自ら生き抜く力を、家庭と地域の協力で育成、発揚する心の故郷として、このモンテ微塾がいつまでも心に残ることを念願しています。

 この塾で先生の教えを受けてこられた皆さんのご多幸、ご健勝を心からお祈りしております。

 なお、先生から送って戴いた上記のVTRを同封しますので、写っておられるかたに差し上げて下さい。VTRをみて先生の指導を思い出して戴ければ幸いです。一年祭の日は、所用のため欠席しますが、ご遺族はじめご出席の皆様に宜しくお伝え下さい。先生の活躍、ご発展をお祈りしています。

                          平成10年11月6日  


(8)中村先生に出会い学んだこと
 
                                 上嶋 光春

 黒板11月黒板12月
 私が中村佐喜雄先生を初めて知ったのは、1993年度京都教育大学特別育専攻科に内地留学中「奈良県の障害児学級の歴史」を研究していた時であった。奈良県最初の障害児学級のひとつである鼓阪小学校の担任(2代目)であった西村幸治氏(1998年没)を訪問して聞き取り調査をしていた時、退職後岡山でモンテ微塾足守仲良しホームを開かれた中村佐喜雄先生のことを聞いたのが最初であった。1994年、中学校にもどった夏休みに研修でそのモンテ微塾に1泊2日でおじゃました。それが最初の出会いであった。そこで、塾の生徒さんが集中して課題に取り組んでいる姿にびっくりした。我が目を疑った。その様子をビデオで撮影させていただき、後日、それを編集してビデオにまとめてた。中村先生から塾の紹介のビデオとして欲しいという依頼があり何本もダビングして送った。授業が終わった深夜にビールを飲みながら、障害児教育の話がはずんだ。ピアノを弾きながら歌まで聞かせていただいた。それから毎年夏休みに研修にいかせていただいた。1997年まで4回ではあったが、先生との出会いは故郷に帰るような安らぎを与えていただき、毎年楽しみにしていた。最後の訪問になった1997年夏、心臓発作になやまされながらも一日も塾を休まれなかった中村先生が、死ぬまでに奈良県の懐かしい先生方に合いたいので奈良に帰ったら連絡をとって欲しいう依頼を受けた。そして、11月30日。その依頼の手紙で奈良から先生方が行かれた翌日、心臓発作で亡くなられたという報告を受け、新幹線で岡山にむかった。夜、モンテ微塾に着いた。玄関のところにかけてある予定黒板にいつも塾の生徒さんの名前がびっしり書かれているのが12月1日でとぎれて空白。信じられなかった。
 奈良県の障害児教育の開拓者で実践家でもあった中村先生が、退職後、岡山県で障害児のためのモンテ微塾を開 設されて10年。音楽療法など独自の障害児教育をさらに発展させ、障害を持つ子供達をお母さんが指導するというモンテの教育は、子供達そしてとりわけ障害を持つ子供達に学習することの生きがいを中村先生自らが 開発されたモンテのユニークな教材を通して教えられたのでした。そして、その中で子供達が確かに伸びることが、親にとっても本人にとっても、そして、なによりも中村先生自身が生きがいとされていた源泉ではなかったのではないかと思った。心臓発作におそわれながらも毎日の子供との実践は休まれなかった中村先生。毎週何時間もかけて塾にくる子供達のためにモンテを休むわけにはいかなかった。子供達は意欲をもって楽しみにして通ってくるそんな塾だったモンテ微塾。中村佐喜雄先生の意思を受け継ぎ、これからの障害児教育に生かしていけたらと思っています。ご冥福をお祈りします。 

 追記 中村先生の追悼文集を発行したいと思い、たくさんの方々から原稿や資料をいただきながら、とうとう今ごろになってしまった。なんとか、先生の遺業を形にして残したいと思い、ここに発行したいと思います。発刊が遅れたことをお詫びもうしあげます。



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ueshima@sikasenbey.or.jp 2001