1998.11.29
この文は橋本洋一先生から送っていただいたフロッピーの一太郎のファイルを
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私たちは日々、人との出会いと別れを何となく繰り返している。その中で中村先生と私の出会いと別れは何か劇的であったと感じられてならず、ワープロのキーをたたく気になった。
それは昭和47年の秋だったと思う。
生駒教組執行委員会で中村先生のことが話題になった。斑鳩小学校の保護者が「中村先生は子どもに体罰を加えて困っている。何とかしてほしい。」と組合に訴えてきたというのである。
執行委員会はすぐその保護者と分会に事実の確認をした。その結果は「どうも事実らしい。鼓笛隊の練習でムチを使って厳しく指導しているらしい。」とのことであった。
分会と相談したところなかなかの理論家・実践家だという。一筋縄ではいかないだろうと言うことで執行部がとにかく中村先生から直接話を聞いて説得しようと言うことになった。
その役を仰せつかったのが書記長と私だった。中村先生との出会いであった。
どのように話をしたか覚えていないが先生はあっさりと事実を認められ体罰が間違っていることを認められたのである。
そして「あんた等だけや、僕にそんなことを言うてきたのは。よう分かった。組合ちゅうのは上と喧嘩ばっかりするところや思うてたけど子どものこと考えてんねんな。」と妙に不思議がられたのが印象に深い。
20代後半の私と年はずいぶん離れていたように思う。代議員会や集会で会う毎に生意気を言った若造に先生は「あの時よう言うてくれた。わしは感謝してんねんで」としつこいほどに繰り返された。
組合活動に協力的になり、代議員会で答に窮すると助け船を出して下さったことが懐かしく思い出される。
障害児教育にはとりわけ熱心だった。
平群東小学校におけるM君と言う自閉症児に対する取り組みは側から見ていて目を見張るものがあった。音楽療法、自転車乗りと次から次に目新しい実践を積まれていた。聞くところによるとかなりハードなやり方で現場の先生からはかなりの批判があり、論争があったという。それがモンテッソーリの教育論に基づく実践だったと言うことは後になって聞いたことである。
今M君は立派に成長し、彼を理解してくれる会社の仲間に囲まれて元気に働いている。
退職されてからのモンテ微塾・足守仲よしホームでの実践は先生からの便りで少しは知っているが多くの方が書いてくださるだろうから省略する。
平成9年のこと。長く会っていないし久しぶりに中村先生のところに行こうと話が決まったのは9月頃だったと思う。11月29日から一泊二日で行こうというのである。これが先生の死の前日になろうとは誰知る由もなかった。
計画には平群町内の校長・教頭5人が加わった。先生に宿のお世話になるのは恐縮だし中国山地の温泉に前宿し、30日10時きっかりにホームを訪ねた。
頭こそすっかり白くなっておられたが紺色のジャンパー姿まで昔のままの中村佐喜雄先生が待っていて下さった。
日程説明を事細かに聞いた後、順次来所する保護者と児童に指導されるのを見学させていただいた。
ピアノ、手動式計算機、モールス電信機、カード等を使った指導をそれは手際よく進められていた。
自閉の女児は先生のピアノをBGMに母の膝の上で絵物語に夢中になっていた。
その後、別室では3人の子どもとその保護者が指導を受けていた。高等養護に通うという男の子は家で練習してきたというピアノ曲を無心に弾いていた。上手かった。別の子はモールスと計算機を保護者と共に動かし訓練を受けていた。
70歳を越し、心臓を病んでいるとおっしゃる割にはその姿はかくしゃくとして若々しく感じたのは私だけだろうか。
子どもは生き生きと学び、保護者は先生を信頼しきっている雰囲気が部屋中に満ちあふれていた。中村先生が理想とされた障害児教育実践の極点を私たちは垣間見させてもらったのであろう。同じ教育に精進する者として穏やかで心温まる至福の一時を過ごさせてもらった。羨ましかった。
午前中の指導が終わった後、別室に案内された。「ちょっと時間をとる。今日の視察の感想や質問を出してくれ。すぐに答えられへんこともあるからここに質問状を用意した。ここへ書いといてくれ。」と言うのだ。
そして話された。「よくここまで頑張ってきた。もう限度や。医者は手術をせえと言うが治る保障も無いというのによく言いよる。医者は信じられん。入院したらホームが止まってしまう。出来るところまでやるんや。ホームの運営と指導は文部省方針でやってきた。間違っていたとは思わん。原学級保障では子どもの力を十分伸ばせられん。おまえらもうちょっと勉強せい。」他にも色々言われたが私の記憶からはもう消えている。
午後からの予定もぎっしり入っているとのことだったので身体をいとい無理のない活動をなさるよう伝えて12時半にホームを辞することになった。庭先で記念の写真を撮ってお別れした。
先生が元気になさっていた指導のあれこれを話題にしながら帰りの車中は賑やかだった。
訃報を伝える電話があったのはその翌日だった。まさかと耳を疑ったが私たちが最後の来訪者になってしまった。
亡き人だからと言って美辞麗句で飾り立てるつもりはない。しかし中村先生は自分の信じるところに従ってその生涯を教育のために捧げられた方だと思う。40年近い現役時代を終えて退職すると悠々自適で余生を送る方が多い。その中で中村先生は子どものために、中でも障害を負う子どものために余生の全てを捧げられたと言うところがすばらしい。それも私財を投げ出して施設を整え、見知らぬ岡山の地で持てるエネルギーの全てを完全燃焼されたのである。それは人間と子どもに対する限りない愛情を持たれ人間の発達の可能性を信じてやまなかった思想性がなせる技ではなかろうか。欲を捨て全身全霊をなげうっておられた姿に先生の偉大さと人間のすばらしさを感じずにはいられない。
お付き合いとは言えるものではなかったが先生に接しその生きぶりを見せていただくにつけ教えていただくことが多かった。障害児教育における実績はもとよりその生き方に私は多くのことを学ばせていただいた。市井の一教育者として生き、教育に埋もれ消えて行かれた中村佐喜雄先生の生き方に私は惜しみない拍手を送るものである。そしてお礼を申し述べご冥福をお祈りしたい。
この度、中村先生の追悼文集をつくるとの手紙に接し思い出の一端を記した次第である。
上嶋光春先生には文集編集の労と合わせてこの機会をつくって下さったことに心から感謝とお礼を申し上げたい。