モンテ微塾故中村佐喜雄先生追悼文集


生駒郡三郷町の井上美江子さんの手紙より  1998.11.28


 中村先生との出会は二十年程前の事でした。私の娘は(二十四才)知的障害者です。ぼんやりですが娘の保育所で障害児の療育教室に見学にこられ、話している中で主人の恩師とわかり親しくさせて頂いた様に思います。初めはお互いに心を開かなかったのですが、私が主人との出会、新婚旅行の話などをすると「あんたの話は、漫才より面白い」と大笑いしてくださったのを思い出します。家にも段々、月一、二度遊びに来てくださるようになり、娘に、五十音や時計の見方などを教えて頂き、時計の方は覚えられなかったのですが、娘の頭に一番印象に残ったのか先生の事を、一時0分の先生と今でも呼んでいます。先生は、お米の代わりにお酒を飲んでおられ、(先生いわく、酒は米から出来ている、同じだと・・・)夕食は共にしてくださり、無理矢理に泊まって頂く事もあり、でも朝は気遣って六時頃に帰られ、帰ると言う時は、主人と、主人と、私が車の免許を取ってからは、娘と三人で送ったり、主人が先生の家に寝かせてから帰ってきたり、いろいろとエピソードもあり思い出します。かならず子供達にお小遣いをくださったり、気を使って下さる一面もありました。
 岡山に行く話も「こんな物件があるがどうや・・・」と言いながら、退職後の夢を語られていました。親しい方々にもお話しをされていたと思うのですが、段々家に持ってこられる書類も増え、本格的に計画をたてて、岡山行きとなりました。正直な処、先生のお体の調子や、「我が道を行く」(?)と言う個性のはっきりとされている処もあり、心配していたのですが、大人だったのですね。「安ずるより生むがやすし」でした。
私も娘と共に岡山の方に様子をみに伺ったりしました。岡山の方々、周囲の方々に助けられ、身体の方はしんどいながら夢を実現出来たのではと、そのてん幸せな老後を過ごせたのではないかと思います。寂しがりやなところ、デリケートなところ、気がつくところ、思いやりのあるところ、変に格好をつけるところ、頑固なところ、生まじめ、いろいろ思い出されます。思えば、私が娘の育て方や思いを話したりすると、ニコニコしながら「そう、それでいい」と言ってくれ、反対さあれた事なかったなあーと、先生の亡くなられる四、五日前に電話で話しが出来た事、内容は、ずっとお中元、お歳暮を子供達用に届けてくださるので気遣いしない様にとか、先生も毎朝発作がおきているなど話され、「今授業中だからお話しは手紙を書いてくれ」と私も「声ぐらい聴かせてもいいでしょ・・無理なさらないように・・」が最後の会話となりました。
 送らなくてもいいと言っても届けてくれるのでそれがなくお体の調子でも悪いのかなあと主人と心配していました。私も体調を壊していたので、そのままお正月を迎えて訃報を聞き、何もしてあげられず、ごめんなさいと心であやまり、御冥福をお祈り致しました。
奈良で五十日の法要に主人と一緒に御参りさせて頂きました。お骨箱の上に愛用のマスクも置かれてあり、岡山の皆様のお心遣い、良くしていただいた事、先生が感謝されていると思います。
 文章もさだまず自分でも恥ずかしですが、思いのまま書きましたので御判読お願い致します。
 中村先生ありがとうございました。    合掌


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